本艦は明治30年度計画(第二次拡張計画)による戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻からなる「六六艦隊」の最強の戦艦として建造された。
兵装や諸元は同じ第二次拡張計画艦の<朝日><初瀬>と同様であるが、竣工が遅かった為、装甲板としてより強力なクルップ甲板が採用でき、防御力では格段の差があった。
当時、単艦で本艦に対抗できる戦艦は英海軍のクイーン級ぐらいで、しかも当時のスエズ運河は戦備状態の本艦やクイーン級は航行できない為、少なくとも極東海域においては本艦が最強の戦艦であった。
聯合艦隊の旗艦として日露戦争に参加。明治38年5月末の日本海戦では東郷提督座乗の元、Z旗を掲げ日本艦隊の先頭に立ちバルチック艦隊(正しくは第二・第三太平洋艦隊)を撃滅し、海戦史上、空前絶後の大勝利を納めた世界にその名を響かせた。
この海戦で<三笠>はロシア艦隊の集中砲火を受け、30センチ砲弾10発、15センチ砲弾21発という、沈没して当然の大打撃を受けたが、艦橋や水線下への命中弾はなく、また火災・浸水ともに発生しないという、非常な幸運により生還した。
しかし、対馬沖で得た幸運を取り戻すかのように運命の秤は反対側に傾き、ポーツマス条約締結から1週間も経たない、明治38年9月11日、佐世保港内で弾薬庫が爆発、乗員の2/3が死傷する大惨事となり、着底してしまう。
公式発表は「紐状火薬の自然変質による温度上昇に伴う誘爆」という事になっているが、松村副長らの証言では、爆発の前に火災を生じていた可能性が濃厚で、失火が原因とする説も強い。
明治38年8月、浮揚。修理・整備を行ない明治41年より再び栄光の第一艦隊の旗艦となる。
第一次世界大戦では主にウラジオストック・樺太方面で活動。
続くシベリア出兵にも参加するが、大正10年10月1日、アスコルド海峡で座礁。ウラジオストック(ロシア)海軍工廠で修理を受ける。
内地帰還後の大正12年9月1日、今度は関東大震災で浸水。そのまま除籍となった。
その後、記念艦として保存が決定、大正15年、記念艦として工事が完了。
昭和20年、占領軍命令により船体を除く設備を全て撤去、完全に荒廃するも昭和36年5月27日、復旧工事を受け再び記念艦となり、現在に至っている。
一般に英海軍の<ヴィクトリー>、米海軍の<コンステテューション>、そして<三笠>を世界三大記念艦という。
三笠の戦い:幸運、糾える縄のごとし
<三笠>は幸運な艦だったのか?
これは非常に難しい話である。日本海海戦の幸運と栄光。しかし、その栄光の絶頂であるべき対露凱旋観艦式にその姿なし。
第一次世界大戦・シベリア出兵の歴戦。しかし、外地での座礁事故。
地震による浸水、条約による破棄。記念艦としての保存、敗戦による荒廃、有志による復旧。
しかし、現状はあまり誉められた状態ではないらしく、一部の意見では「<三笠>は日本海海戦で沈むべきだった」という意見まで出る始末。 結局の所、幸運なんだろうか、不運なんだろうか?
三笠要目(新造時)
名 称 | 三笠(改朝日) |
ネームシップ | |
建造時期 | 明治35年3月1日 |
建 造 数 | 1隻 |
常備排水量 | 15140トン |
全 長 | 131.7m |
水 線 幅 | 23.2m |
吃 水 | 8.3m |
主 機 | 直立4気筒三連レシプロ蒸気機関2基 |
推 進 軸 | 2軸 |
主 缶 | 石炭専燃缶 25基 |
出 力 | 15000馬力 |
計画速力 | 18ノット |
航 続 力 | 10ノットで7000浬 |
燃料搭載量 | 石炭1521トン |
乗 員 | 859名 |
兵 装 | 30.5センチ40口径連装砲 2基 |
| 15.2センチ40口径単装砲 14基 |
| 7.6センチ40口径単装砲 20基 |
| 4.7センチ単装砲 16基 |
| 45センチ魚雷発射管 4門(水中) |
装 甲 | 水線229ミリ、甲板76ミリ、砲塔203ミリ |