大正六年、八八艦隊計画の第二段階の球磨型軽巡、加賀型戦艦などと共に計画された大型航洋駆逐艦。

 従来のイギリス式設計を一転し、艦橋前方のウエルデッキや、備砲を上部構造物上に乗せるなど、日本独自の設計を行った最初の大型駆逐艦。
 叢雲以来、着々と積み重ねてきた日本駆逐艦のマイルストーンのひとつで、同時期の英V型、米甲板型に比べ、あらゆる点において優越または互角と、「艦対艦で戦えば我が海軍の必勝」の『個艦優越主義』の萌芽が見られる。

 効率および排煙の問題から重油専燃を採用、出力38500馬力のオール・ギヤードタービンは量産された日本駆逐艦としては最高の39ノットを叩き出すに至ったが、タービンブレードの破損事故や缶管の腐敗などの問題が解決されるには、さらに数年を要した。

 なお、造艦技術が飛躍的に進歩した時期に建造されている為、後期艦ほど改定が行われ、特に<野風><波風><沼風>は主砲の位置が変更(神風型と同じ)された為、別型として扱う事もある。



峯風型の戦い:韋駄天の系統 〜島風〜

 高速発揮時にタービンブレードがおれるなどのトラブルに悩まされながらも、峯風型は39ノットを越える高速を叩きだした。
 中でも4番艦<島風>は40.698ノットを記録、。この記録は昭和18年に二代目<島風>の名を襲名した新型駆逐艦によって破られるまで、30年近くに渡って日本海軍のレコードを保持しつづけた。


峯風型の戦い:戦艦を操る駆逐艦 〜矢風〜

 昭和12年、ワシントン条約により廃棄された戦艦<摂津>に無線操縦による爆撃標的艦への改装が行われ、そのコントローラーとして、<矢風>が使用され、<摂津>と<矢風>のコンビは日本海軍の練度向上に大きな貢献をした。
 その後、太平洋戦争勃発による爆撃訓練の増加に伴い、<矢風>も有人標的艦に改造され、南方に進出して活躍した。
 ただし、元が元だけに、いかに演習爆弾といえど、30kgの物体を4000mから急降下でぶつけられた日には目も当てられない結果になりかねないので、元戦艦の<摂津>や本職の<波勝>等とは異なり、1kg程度の小型演習爆弾を使用した。



峯風型の戦い:プロレタリア文学に「出演」 〜野風、波風、沼風〜

 <野風><波風><沼風>は戦前は聯合艦隊には編入されず、横鎮所属艦として第一駆逐隊を編成し千島・樺太・カムチャッカ方面で漁業保護の任務につく事が多かった。
 この方面は、現在と同じくソ連と領海問題があり、日本漁船がソ連太平洋艦隊の哨戒艇や砲艦に「嫌がらせ」(ソ連側からみれば正当な権利だが)を受ける事があり、そんな漁船の人達から見れば、旭日旗を靡かせ、ソ連艦を蹴散らす<野風>らは救いの神に見えたという。
 しかし、小林多喜二が昭和4年に発表したプロレタリア文学の代表作として知られる「蟹工船」では船員の起したストライキを鎮圧する、ブルジョワの手先として日本駆逐艦が登場するが、時期と場所を考えて、この3隻のいずれかである事は間違いない。
 なお、蟹工船の舞台となる「博光丸」のモデルは元上海航路客船「博愛丸」で、日露戦争にも病院船として従軍した武勲船だそうな。



峯風型要目(新造時)

 名  称   峯風型(野風、波風、沼風は野風型と称する事もある)
 ネームシップ  峯風(野風型は野風)
 建造時期  大正9年5月29日〜大正11年11月11日
 建 造 数 15隻(野風型を除くと12隻)
 基準排水量  1215トン
 全  長   102.6m
 水 線 幅   8.9m
 吃  水   2.9m
 主  機   三菱パーソンズ式オール・ギヤードタービン2基 
 推 進 軸 2軸
 主  缶   ロ号艦本式水管缶4基(重油専燃) 
 出  力   38500馬力
  計画速力  39ノット
 航 続 力 14ノットで3400浬
 燃料搭載量  重油395トン
 乗  員   148名
 兵  装   12センチ45口径単装砲 4基
  6.5ミリ単装機銃 2基
  53センチ連装魚雷発射管 3基
  一号機雷 16個



峯風型の航跡

峯風 Minekaze
大正9年5月29日、舞鶴工廠にて竣工、一等駆逐艦に類別
昭和19年2月10日、台湾沖で米潜<ボギィ>の雷撃をうけ沈没
昭和19年3月31日、除籍
太平洋戦争では主に船団護衛に従事

澤風 Sawakaze
大正9年3月16日、三菱長崎造船所にて竣工、一等駆逐艦に類別
昭和20年9月15日、除籍、戦後解体。船体は福島県小名浜港の防波堤として利用
太平洋戦争では主に本土付近の哨戒任務および訓練標的に従事

沖風 Okikaze
大正9年8月17日、舞鶴工廠にて竣工、一等駆逐艦に類別
昭和18年1月10日、千葉県勝浦沖で米潜<トリガー>の雷撃をうけ沈没
昭和18年3月1日、除籍
太平洋戦争では主に本土付近の哨戒任務に従事

島風 Shimakaze
大正9年11月15日、舞鶴工廠にて竣工、一等駆逐艦に類別
昭和15年4月1日、哨戒艇に転籍、第1号哨戒艇
昭和18年1月13日、カビエン沖で米潜<ソードフィッシュ>の雷撃をうけ沈没
昭和18年2月10日、除籍
太平洋戦争では主に船団護衛に従事

灘風 Nadakaze
大正10年9月30日、舞鶴工廠にて竣工、一等駆逐艦に類別
昭和15年4月1日、哨戒艇に転籍、第2号哨戒艇
昭和20年7月25日、ジャワ海域で英潜<スタッボーン>の雷撃をうけ沈没
昭和20年9月30日、除籍
太平洋戦争では主に船団護衛に従事

矢風 Yakaze
大正9年7月19日、三菱長崎造船所にて竣工、一等駆逐艦に類別
昭和12年5月5日、<摂津>操作用に改造
昭和17年7月20日、特務艦(標的艦)に転籍
昭和20年7月18日、横須賀港内で空襲により被爆着底
昭和20年9月15日、除籍。戦後解体
太平洋戦争では訓練標的に従事

羽風 Hakaze
大正9年9月16日、三菱長崎造船所にて竣工、一等駆逐艦に類別
昭和18年1月23日、カビエン沖で米潜<ガードフィッシュ>の雷撃をうけ沈没
昭和18年3月1日、除籍
太平洋戦争では南方作戦、サンゴ海海戦に参加

汐風 Shiokaze
大正10年7月29日、舞鶴工廠にて竣工、一等駆逐艦に類別
昭和20年10月5日、除籍。特別輸送艦として復員業務に従事後、解体。船体は宮城県女川港の防波堤として利用
太平洋戦争では主に船団護衛に従事

秋風 Akikaze
大正10年4月1日、三菱長崎造船所にて竣工、一等駆逐艦に類別
昭和19年11月3日、南シナ海で米潜<ピンダート>の雷撃をうけ沈没
昭和20年1月10日、除籍
太平洋戦争では主に南方で哨戒・護衛任務に従事

夕風 Yukaze
大正10年8月24日、三菱長崎造船所にて竣工、一等駆逐艦に類別
昭和20年10月5日、除籍。特別輸送艦として復員業務に従事
昭和22年8月14日、イギリスに引渡し
太平洋戦争では空母<鳳翔>の直衛や哨戒・護衛任務に従事

太刀風 Tachikaze
大正10年12月5日、舞鶴工廠にて竣工、一等駆逐艦に類別
昭和19年2月17日、トラック島で米艦載機の攻撃をうけ沈没
昭和19年3月31日、除籍
太平洋戦争では主に船団護衛に従事

帆風 Hokaze
大正10年12月12日、三菱長崎造船所にて竣工、一等駆逐艦に類別
昭和19年7月6日、セレベス海で米潜<バッドル>の雷撃をうけ沈没
昭和19年9月10日、除籍
太平洋戦争では主に船団護衛に従事

野風 Nokaze
大正11年3月31日、舞鶴工廠にて竣工、一等駆逐艦に類別
昭和20年2月20日、南シナ海で米潜<バーゴ>の雷撃をうけ沈没
昭和20年4月10日、除籍
太平洋戦争ではキスカ島撤収作戦に参加。主に北方の船団護衛任務に従事

波風 Namikaze
大正11年11月11日、舞鶴工廠にて竣工、一等駆逐艦に類別
昭和20年10月5日、除籍。特別輸送艦として復員業務に従事
昭和22年10月3日、中国に引渡し国府海軍駆逐艦<瀋陽>となる
太平洋戦争ではキスカ島撤収作戦に参加。主に北方の船団護衛任務に従事

沼風 Numakaze
大正11年7月24日、舞鶴工廠にて竣工、一等駆逐艦に類別
昭和19年7月6日、沖縄南方で米潜<グレイバック>の雷撃をうけ沈没
昭和19年9月10日、除籍
太平洋戦争では主に北方の船団護衛任務に従事


注記:
 <峯風>の「峯」の字は常用漢字字体では「峰」となり、原則として旧字体を使用しないという本HPのルールに従えば
 <峰風>が妥当であるが、一般に<峯風>とされる為、ここでも<峯風>とした。
 なお、当時の文書にも<峰風>としているものがある。