フランスからの回航途上に事故で沈没した<千島>に続き、明治24年度計画で建造された艦。
 小型の船体に強力な雷装をもつ、いわゆる「水雷砲艦」で、日本海軍では最初は通報艦、通報艦の廃止後は一等砲艦に分類された。

 高速・強兵装の優秀艦で清帝国との戦争が不可避となった日本海軍の期待をになって明治27年7月31日に竣工したが、回航中に開戦を迎え、アデンで中立国であるイギリスに抑留されてしまい、ほとんど戦争には間に合わなかった。

 日清戦争には間に合わなかったものの、日露戦争では日本海海戦を含め、前線で戦い、大正5年に除籍となった後も潜水母船(雑役船)<長浦丸>として潜水艦の補給・支援任務などで活躍した。


龍田の戦い:長官視察

 明治37年12月19日、東郷平八郎聯合艦隊司令長官座乗の通報艦<龍田>は旅順港外・竜王塘まで進出し、老虎半島を強行偵察した。
 ロシア旅順艦隊は日本陸海軍の砲撃により壊滅したが、ただ1隻、戦艦<セヴァストリポリ>だけは旅順港外の城頭山下に脱出するのに成功した。
 とにかく、旅順艦隊を全滅させ、来寇するバルチック艦隊に備える為に帰港する必要のある聯合艦隊は水雷艇による襲撃を実施、しかしその戦果は不明であった。
 そこで強行偵察を行なう事となったが、なんと東郷長官が自らの参加を希望、203高地は落ち、旅順艦隊は壊滅したとはいえ旅順要塞はいまだ健在で、さらに機雷の危険もあり幕僚は真っ青になって止めたが、結局、長官が自意を通し<龍田>艦上の人となった。
 おもえば、太平洋戦争における山本聯合艦隊司令長官の悲劇はこのエピソードに端を発しているのかもしれない。



龍田要目(新造時)

 名  称   龍田
 ネームシップ  −−−
 建造時期  明治27年7月31日
 建 造 数 1隻
 常備排水量  868トン
 垂線間長   73.15m
 水 線 幅   8.39m
 吃  水   2.90m
 主  機   直立3気筒3段膨張式レシプロ機械 2基
 推 進 軸 2軸
 主  缶   円缶(石炭専燃) 2基
 公試出力   5500馬力
 計画速力  21ノット
 航 続 力 −−
 燃料搭載量  石炭244トン
 乗  員   107名
 兵  装   12センチ単装砲 2基
 47ミリ単装速射砲 4基
 45センチ連装魚雷発射管 2基
 45センチ単装魚雷発射管 1基