北兵団、大陸を征く

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支那事変勃発

 昭和12年7月7日、北京郊外で日本軍と中国軍が衝突、たちまち事態は拡大し日中は全面戦争に突入、世に言う「北支事変」「支那事変」(後に遡って「日中戦争」)と呼ばれる戦争が勃発します。

 事変勃発時の日本軍の北支における戦力は歩兵1個旅団と砲兵1個連隊を基幹とする支那駐屯軍のみで、歩兵だけでも30個師団を数える中国軍と干戈を交えるのは不可能な状態でした。
 そこで、まず関東軍から2個旅団と1個飛行中隊が派遣、朝鮮軍からも第二十師団(朝鮮)が応急動員され、続いて内地からも第五師団(広島)、第六師団(熊本)、第十師団(姫路)を基幹とした特設3個師団(第百五師団、第百六師団、第百十師団)が動員されます。
 北海道の第七師団(旭川)も有事の際には第百七師団を編成する事となっており、人員表が作成され、装備・被服一式も用意されていましたが、結局動員は行なわれず、かわりに軍直属の部隊の動員を担当する事となり、まず7月27日に電信第9中隊が動員され、続いて8月10日には後備歩兵大隊(4個)、後備工兵中隊、野戦道路構築隊、陸上輸卒隊、野戦病院、患者輸送隊、兵站病院が、8月15日には兵站司令部と輜重兵部隊、建設輸卒隊が、9月4日には独立機関銃大隊(2個)が次々と動員され北支の戦場に向かいました。

 北支に出征した第七師団後備歩兵第1・第2大隊(札幌・歩兵第25連隊担任)、第3大隊(旭川・歩兵第27連隊担任)、第4大隊(旭川・歩兵第28連隊担任)は9月14日に天津に到着、18日より中国軍の拠点・保定に向けて進撃を開始、22日から2日間に渡る戦闘でこれを陥落せしめ24日に保定入城を果たしました。
 その後、第2大隊を除く各隊は第百十師団(姫路)に配属されて天津−槍州間の鉄道警備につき、第2大隊は独立混成第2旅団に配属となり、敗走する中国軍を追って遥か張家口まで進出、一方後備工兵中隊は駐蒙軍の第二十六師団(名古屋)に属し大同に進出しました。


「北」兵団誕生

 昭和13年ごろから、現役兵の補充による戦力の充実や共産軍の浸透から大陸に派遣されている後備大隊を積極活用する必要が生じ、これらの部隊を統括運用する「独立混成旅団」が編成される事となりました。
 独立混成旅団は「専ラ守備任務ニ任ズル」と軍令で定められた組織で5個の歩兵大隊を基幹に旅団砲兵隊、工兵隊、通信隊を加えたもので定員は5000名強、師団型の兵科混合の戦略単位ですが師団に比べ1/3程度の規模で輜重兵隊や騎兵隊を欠いており、また、歩兵部隊も分屯・分駐を考慮して連隊編成ではなく独立大隊編成となっていました。
 第七師団部隊も昭和14年1月14日、北支警備についていた後備歩兵第1大隊〜第4大隊を独立歩兵第26大隊〜第30大隊に改組し、これらを基幹にした独立混成第七旅団の編成が下命され、2月21日に天津で編成を完結、文字符号(秘匿名称)は「北」と定められました。


民衆が駐屯を請願

 新編の独混7旅団の任務は津浦線(天津〜浦口)および石徳線(石家荘〜徳県)の鉄道および周辺地域の警護で、山東方面に展開する共産軍(八路軍)の百団攻勢などの積極的な拡大浸透作戦に対し連日激しい治安戦を繰り広げました。
 大陸では対ゲリラ戦で神経が昂ぶっている日本軍の行き過ぎの行為が多く見られましたが、独混7旅団の駐屯した地域は優勢な中共軍が所在する赤色地域で住民の敵性度が強かったにもかかわらず、素朴で純粋な北海道兵と同じく素朴で純粋な現地住民の交流はスムースに行なわれ、軍規は粛正を保ったという事です。
 後に独混7旅団が山東方面に移ると中共軍の攻勢が激化、日本・中共両軍の非道行為も目立ち始めるようになり、独混7旅団の独立歩兵第29大隊が駐屯していた大鎮営という街の古老はわざわざ独混7旅団をたずねて独歩29大隊の大鎮営への帰還を請願したそうです。


大陸打通作戦

 昭和19年、大本営は悪化する一方の戦局を打開すべく、北支・中支・南支の全方面で積極攻勢に出て、占領地間の交通路を確保して北支〜南支の連結を図る「大陸打通作戦」(1号作戦、コ号作戦)を企画、独混7旅団の属する北支派遣軍も黄河を渡河して一気に南下、京漢線(北京と漢口を結ぶ鉄道路線)の打通を図るとともに洛陽を攻略するという任務が与えられました。
 昭和19年4月、警衛地を移譲または放棄して作戦開始地点である伝庄に移動、4月17日、黄河を渡河、作戦を開始します。
 北兵団は第三十七師団と協同して渡河阻止にあたっていた重慶軍2個師団を撃破、30日には許昌を占領、ここで西転に転じる三十七師団と別れて前進を続け、5月中旬に攻勢部隊を離れて京漢線の復旧・警護と軍後方連絡業務に就くまでに嚢城、魯山などを攻略して軍の外翼を援護して主力の活躍を大いに助けました。


第百十五師団に改編

 昭和19年5月、鉄道警備についていた独立混成第七旅団および独立歩兵第三旅団(名古屋)、独立歩兵第四旅団(大阪)、独立歩兵第九旅団(広前)の4独立旅団を師団に改編する事となり、7月10日に独混7旅団を基幹とした第百十五師団の編成が下令、8月15日に編成完結しました。
 第百十五師団は「治安師団」あるいは「丁編制師団」と呼ばれる少々特殊な編制の師団で、通常の野戦師団が3個ないし4個の歩兵連隊(1個歩兵団または2個歩兵旅団)と工兵、騎兵(索敵)、輜重、砲兵連隊と衛生、通信隊から成り定員は約2万名なのに対し、これらの治安師団は8個独立歩兵大隊(2個歩兵旅団)と工兵、砲兵、通信、輜重、衛生隊からなり、定員は1万名強と若干小ぶりで重火器や自動車、馬匹も少なく、歩兵が旅団と大隊の間に連隊がある通常の編成ではなく旅団の下に直接大隊がくる独立大隊編成になるなど、野戦における作戦よりも占領地の警備に重点を置いた編成となっていました。(複数の地点に分散して駐屯する際に単独が完結している独立大隊編成の方が都合が良いので)


老河口作戦

 新編なった百十五師団ですが、任務は旅団時代と同じく鉄道警備。このころから米軍より優秀な装備の供与を受けた中国軍の反撃が激化しはじめ、せっかく大陸打通作戦で全通させた京漢線も度重なる爆撃でしばしば不通となるなど事態は深刻の度合いを強めていきました。
 手詰まりとなりつつある戦局を打開すべく、昭和20年3月を以って北支那方面軍は老河口飛行場を中心とした河南省・湖北省での作戦を企画、隷下諸部隊に命令を発しました。
 第百十五師団は戦線左翼第一線に配属となり、3月22日払暁より前進を開始、突撃に次ぐ突撃で敵部隊を撃破しつつ進撃し3月29日に老河口飛行場に到達、4月10日には老河口を占領し最初の目的を果たしたのですが、中国軍のゲリラ戦術にはまり込み、占領地警備の為の兵力が前線の部隊から引きぬかれた上に武器弾薬や糧秣の補給は途絶えがちとなり、非常な苦戦を強いられつつ河南の平野を進んでいきました。


最後の作戦

 一方、戦線右翼を担当していた第百十師団は西峡口で中国軍の精鋭・第一戦区軍の猛烈な反撃をうけて壊滅、戦線の総崩れの危険が生じた為に第百十五師団に増援が命令されました。
 第一戦区軍は極めて優良な米軍式装備を持つ部隊で、特にM4戦車は第百十五師団の装備する速射砲や野砲では撃破不能であり、炸薬を背負って戦車に突っ込む肉迫攻撃しか手はない、という事になりましたが、M4戦車撃破に必要な炸薬は60キロにも達し、生還は殆ど不可能であり、文字通りの肉弾戦を決意して第百十五師団は西峡口に移動しました。
 昭和20年6月25日、第百十五師団が西峡口に到着。陣地を構築し中国軍の突破に備えますが、決戦の前に8月15日を迎え終戦。
 昭和21年春頃から逐次、河南省を離れて上海に向かい、上海から帰国。9年間に及ぶ部隊の激動の歴史はこうして終幕を迎えたのです。