北海支隊、健闘せり

アッツ島占領

 昭和17年5月2日、第七師団の歩兵第26連隊(旭川)および工兵第7連隊(旭川)に対し、独立歩兵第301大隊および独立工兵第301中隊の編成が下令、ついで5月5日には両隊を以って「北海支隊」の戦闘序列が発令されました。
 支隊の任務はアリューシャン攻略。5月9日、総員1012名の北海支隊は編成を完結。旭川で上陸演習を実施した後に集結地である大湊に向い、同地で独立工兵第28連隊と船舶工兵の一部を編合、1143名となりました。
 5月26日、第五艦隊司令長官の指揮下に入った北海支隊は大湊を進発、第一水雷戦隊の護衛の元、アリューシャンに向いました。
 当初の計画ではアダック島に敵前上陸を敢行する予定でしたが、同時進行(というか本筋)のミッドウェイ島に対する上陸作戦が6月5日に発生したミッドウェイ海戦の大敗北により頓挫した為にアッツ島への奇襲上陸に変更となり、6月8日に同島を占領しました。

北海守備隊編成

 アリューシャン作戦はミッドウェイ作戦の陽動的な要素が強く、当初計画では冬には放棄して引揚げる事となっていましたが、実際に占領してみれば何とかなりそうだ、という事でミッドウェイの敗北を隠す意味でも持久に方針変更されました。
 ところが、米軍の航空攻撃が熾烈となってきた為に戦力を集中すべく、8月25日に北海支隊はアッツ島を放棄してキスカ島に移駐。
 しかし、アッツ島をいつまでも放棄しておく訳にはいかず、大本営は北千島要塞守備隊から抽出した米川部隊をアリューシャンに派遣、10月30日にアッツ島を再占領と腰の定まらないフラフラした状態が続きましたが、米軍の圧力が強まるにつれ、大本営は本腰を入れてアリューシャン確保にかたむき、北海支隊の戦闘序列を解き、より強力な北海守備隊の戦闘序列を発令しました。

 北海守備隊は旧北海支隊の独立歩兵第301大隊、独立工兵第301中隊と北千島要塞歩兵隊に加え、新たに編成された独立歩兵第302大隊(札幌)、独立歩兵第303大隊(盛岡)、独立工兵302中隊(盛岡)、独立工兵第303中隊(盛岡)を中核とし、さらに4個独立野戦高射砲中隊、独立無線小隊、固定無線隊、野戦病院からなる強力な部隊で、任務は西部アリューシャン(キスカ、アッツ、セミチ島)の確保、すなわち戦線北方の守りとしておよそ1年間に渡り米軍と死闘を繰り広げることとなります。

アッツ島沖海戦

 アリューシャンには水上機部隊が進出、またセミチ島に飛行場を設営する予定となっていましたが、工事は遅々として進まず、制空権は完全に米軍に移ってしまいました。
 日本軍も増援を送りつづけるのですが北海の波浪と米軍機の前に遅々として進まず、昭和18年1月6日には兵員輸送中の輸送船<もんとりお丸>がキスカ沖で撃沈され831名が戦死するという悲劇も起こり、いよいよ戦局は悪化していきました。

 なんとか輸送を成功させたい日本軍は北方海域を担任する第五艦隊の主力を輸送作戦に投入、輸送船団は3月9日にキスカに到着、作戦は成功裏に終わりました。
 「なんとかの一つ覚え」と評される事のある日本軍は再び艦隊を投入した輸送作戦を実施、これを米軍が迎撃したために3月26日、アッツ島沖海戦が発生しました。
 日本艦隊は重巡2(那智、摩耶)、軽巡1(多摩、木曾)、駆逐艦4(若葉、初霜、雷、電)。対する米艦隊は重巡1(ソルトレイクシティ)、軽巡1(リッチモンド)、駆逐艦4(ベーレー、コグラン、モナガン、デール)。
 あきらかに日本軍の優勢で、米艦隊はさっさと退避、これを日本艦隊が追撃するという形になったのですが、遠距離戦闘に拘泥した為か、<ソルトレイクシティ>の機関故障(機関への海水混入)という天佑に恵まれたにもかかわらず、何ら有効打を与える事ができず、逆に<摩耶>が反撃を受けて小破するという不徹底なものに終わり、以後、この海域に日本軍が制空・制海権を確立する事はありませんでした。

米軍上陸

 昭和18年5月12日。米軍は戦艦や空母すら含む艦隊の支援の元でアッツ島への上陸を敢行。その兵力はブラウン少将以下1万名、中核部隊は奇しくも「第七師団」でした。
 迎え撃つアッツ島の守備隊は約3500名。しかし、陸軍部隊(2665名)の主力は北海道・東北の健男児で編成された精鋭といえど、連日の戦闘と乏しい補給で疲弊しきっており、海軍部隊(約1000名)の方は設営隊や通信隊で戦闘能力は最初から乏しく、衆寡敵しない事は誰の目にもあきらかでした。
 大本営はアッツ島の救援を決意。北海守備隊(キスカ)、北千島要塞守備隊(千島)からの増援を準備、さらには第七師団(旭川)を動員して海軍の支援の元4000名からなる増援部隊を逆上陸させる計画を行ないました。

米軍上陸時の在アッツ島主要部隊
陸軍北海守備隊第2地区隊本部陸軍大佐・山崎保代
北千島要塞歩兵隊陸軍中佐・米川浩3個中隊+通信・衛生班
独立歩兵第303大隊陸軍少佐・渡辺十九二3個中隊+機関銃・歩兵砲隊
北海守備隊第2地区隊砲兵大隊陸軍大尉・淡々伯部利雄山砲兵隊
北海守備隊第2地区高射砲兵大隊陸軍少佐・青戸慎士2個独野高砲中隊+独高砲中隊
独立工兵第302中隊陸軍大尉・小野金造
独立無線第11小隊陸軍中尉・長谷川明
北海守備隊野戦病院陸軍軍医大尉・大浦直二郎
船舶工兵第6連隊第2中隊陸軍大尉・小林徳雄
海軍第51根拠地派遣隊海軍少佐・江本弘(*1)通信隊+設営隊(約1000名・軍属含)
逓信省野戦郵便隊(軍属)
*1 江本少佐は本来は第五艦隊航海参謀。視察中に米軍上陸に遭い、海軍部隊を臨時に指揮

聯合艦隊来らず

 しかし、海軍は動きませんでした。否、動けなかったのです。
 ミッドウェイの傷も癒えないまま突入した南太平洋戦が泥沼化の様相を示し、多くの艦艇・航空機と熟練乗員・搭乗員を失った上に4月18日には聯合艦隊司令長官の山本大将(戦死後元帥に特進)まで戦死、アッツ島上陸の報が伝えられる数日前には新任の聯合艦隊司令長官・古賀大将が会議の席上で「海軍の戦力は開戦時の1/2以下。もはや、まともに戦っては3分の勝算もない。かくなる上は他の正面の支援作戦は切り捨てマーシャル・ギルバード方面で早期に艦隊決戦に持ちこむしかない」と悲壮な決意を述べるほど戦力が低下、おまけに開戦前から備蓄していた燃料もいよいよ枯渇し、戦力の再配置さえままならない、のっぴきならない状態にあり、とてもアリューシャン方面で大規模な支援作戦を行なえる状況にはなかったのです。
 また、戦術的に考えてもアリューシャン方面は霧が多く、昼間でも一方的なレーダー射撃の餌食になりかねず、晴れていたら晴れていたでダッチハーバーやアムトゥチカの基地から空襲を受ける危険がある事など、ソロモン以上に不利な状況でもあった為、ついに海軍は主力の派遣は実施しないという、苦渋の決断を下したのでした。


玉砕命令

 第七師団長の鯉登少将は北方軍司令部(札幌)を訪れ「郷里の兵隊を見殺しにはできない。反撃戦は是非、第七師団にやらせて欲しい」と、司令官の樋口中将に詰め寄る一幕もありましたが、いかに第七師団や北海守備隊司令部がアッツの救援を熱望しても海軍が動けないのでは増援を送る事は不可能です。またアッツ守備隊にはキスカや千島に撤退する手段もありません。
 海軍は一応、潜水艦による将兵救出作戦の実施を決めますが、まさに上陸戦闘を行なっている島から2500名以上の将兵を救出できる望みは無く、ここにアッツ島の北海守備隊第2地区隊の命運は尽きたのでした。
 昭和18年5月23日、万策尽きた北方軍司令部が第2地区隊アッツ島守備隊に対して「軍ハ海軍ト協同シ、万策ヲ尽シテ人員ノ救出ニ努ムルモ、地区隊長以下凡百ノ手段ヲ講ジ、敵兵員ノ尽滅ヲ図リ、最後ニ至ラバ潔ク玉砕シ、皇国軍人精神ノ精華ヲ発揮スル覚悟アランコトヲ望ム。」という悲壮な電文を発しました。


守備隊全滅

 米軍の上陸に対し、山崎大佐は内陸に後退して持久抵抗を試みますが彼我の戦力差は歴然としており、絶え間無い艦砲射撃や空襲でジリジリと戦線は後退していきます。
 25日、食糧も弾も尽きた中戦い続けた北千島要塞歩兵隊長(地区隊の次席指揮官)の米川中佐が戦死。28日までに独立歩兵303大隊や地区隊砲兵隊など主だった部隊は殆ど潰滅、地区隊本部も猛爆撃によりほとんど全滅に近い状態となりました。
 万策つきた地区隊は29日、野戦病院に収容していた傷病者を「処理」し、健常者は非戦闘員である軍属も含めて全員が銃を採って参加する最後の総攻撃を実施する事を決しました。
 29日深夜、訣別電「従来ノ懇情ヲ深謝スルト共ニ閣下ノ健勝ヲ祈念ス」をキスカ島の北海守備隊司令部に打電後、無線機を破壊し山崎大佐以下150名が訣別電の「敵ニ最後ノ鉄槌ヲ下シ之ヲ殲滅、皇軍ノ真価ヲ発揮セントス」の言葉通りの鬼気迫る突撃を敢行、米軍将兵の心胆を冷さしめました。

奇跡の作戦

 アッツ島の全滅を受けて大本営は西部アリューシャンの放棄を決定。キスカ島に所在する北海守備隊および海軍陸戦隊の撤退を行なう事になりました。
 補給や増援を送るのさえ難しい所からの撤収ですから、「霧が出てなければ米軍に見つかる、霧が出ていれば入港できない」という非常な困難な状況でしたが、昭和18年7月29日、撤収部隊である第一水雷戦隊(木村昌福少将)は無傷でキスカ島に到達、5200の将兵を収容して千島に脱出する事に成功しました。
 米軍は日本軍の撤収に全く気づかずにキスカ島に猛砲爆撃を繰り返し、8月15日、無人のキスカ島に対し艦艇135隻・兵員35000名を投入した大上陸作戦を実施しています。

 キスカ島撤収作戦(ケ号作戦)は世界戦史から見ても「完全成功」であり、よく「奇跡の作戦」などという言葉が使用されます。
 実際、何故か米軍のレーダーに捕われず、天候もキスカ島突入時と離脱時は濃霧、撤収作業中はキスカ島の低空のみ霧が晴れいたという、恐ろしいまでの幸運に恵まれた事は事実です。しかし、この幸運を成功に代えたのは更迭問題まで出るほどの木村昌福少将の慎重に慎重を重ねた指揮と、霧の中でも自由に行動した第一水雷戦隊の練度、僅か50分で乗船を完了させた在キスカ島将兵の秩序ある行動であり、かつて東郷長官が使った意味での「天佑神助」(人事を尽くして尚天命を待つ)であったといえます。

アッツ残照

 昭和18年5月30日、大本営はアッツ島の「玉砕」を発表。「玉砕」の語を広く使用するようになったのは、この時からという事になっています。
 発表では2万の敵兵に囲まれた2600の山崎隊が一兵の増援、一弾の補給も要求することなく戦い続け、敵に6000の損害を与えて全滅した事になっており、山崎大佐は「軍神」に祭り上げられ「アッツに続け」という標語も使われるようになりました。(実際の米軍の損害は戦死約600名、戦傷約1200名。増援を要求しなかったのではく、送れなかっただけ)

 かくて、2年間に渡り太平洋で繰り広げられる事になる凄惨な玉砕戦が幕を開けたのでした。