明治27・28年の日清戦争に勝利した日本は遼東半島こそロシア・ドイツ・フランスによる「三国干渉」によって失ったものの、朝鮮半島に確たる地歩を確立し新興帝国主義国として飛躍を図っていました。
一方、南下を国是とするロシアは明治29年にウラジオストック=ハルピン=チタを結ぶ東清鉄道とハルピン=旅順を結ぶ南満州鉄道の建設に着手、着々とアジア進出を行なっており、両国の利害は次第に対立の度を深めていきました。
明治35年、清国で北清事変(義和団事件)が勃発。日本を含む列強は清国に派兵を行ないますが、ロシア軍は事変集結後も清国に止まり満州を占領、さらには日本に対し朝鮮半島の中立化を要求してきました。
当時の日本の総人口4700万人に対しロシアは1億5000万、産業も重工業・軽工業・農業・鉱業あらゆる分野でロシアが圧倒的に優勢、軍事力も日本の常備13師団17万人・備砲690門に対し58個軍団207万人・備砲4200門、海軍は日本の戦艦8隻(旧式艦2隻含む)と装甲巡洋艦8隻に対し戦艦19隻(旧式艦1隻と海防戦艦3隻含む)と装甲巡洋艦7隻。
ロシアには革命・独立勢力の台頭に伴う治安の悪化やドイツへの不信から、東洋に投入でる軍団に限りがある事や艦隊がバルト海、黒海、太平洋と分散していて集中運用できる訳ではない事など、マイナス要素も多くありましたが、国民高揚スローガンに自分達まで洗脳されてしまい正気を失っていたようにも思える昭和指導部と異なり、完全に正気を保っていた明治指導部には、この国力・戦力差でサンクト・ペテルブルク(ロシアの首都。最近までレニングラードと言っていたが、最近また元に戻った)に日章旗を打ち立てられると思っている呑気者はいませんでした。
当然の如く日本政府は戦争の回避に全力を傾け、日英同盟による恫喝から満州=朝鮮の交換(日本は満州の権益を放棄し、ロシアは朝鮮の権益を放棄するという案。かつての樺太千島交換条約のようなものか)まで、あらゆる手を尽くしますが妥結には至らず、そのうち日清戦争の自信と三国干渉の恨みも手伝って世論が完全に開戦に傾いてしまい、政府もこれに引きずられる形で明治37年2月6日、ついに開戦を決意しました。
日本軍の戦争計画はロシアの戦争準備が整うまでに可能な限りの打撃を与えておく事に最重点が置かれており、開戦後は朝鮮半島と遼東半島に上陸、南満州鉄道にそって奉天・長春・ハルピン方面を目指して進める所まで進むという事になっていました。
遼東半島の先端には旅順と呼ばれる都市があり、ロシアが清国より租借して要塞を建築していた為、当初は攻略は行なわず、北進する主力の背後が脅かされない程度の包囲を行なって守備兵力を封じ込めておく計画となっていました。
しかし、ヨーロッパのバルチック艦隊(バルト海艦隊)と合同するまで守勢方針を決めたロシア太平洋艦隊は旅順要塞に奥深くに逼塞してしまい、これを無力化する必要ができたために日本軍は旅順攻略を決意、明治37年5月20日、第一師団(東京)、第九師団(金沢)、第十一師団(善通寺)の3個師団を基幹とする第三軍(司令官・乃木大将)による要塞攻略が決定、7月26日の歩兵第43連隊(善通寺)による剣山陣地攻略をかわきりに約半年に及ぶ旅順要塞攻略戦が開始されました。
攻撃開始から約一週間で剣山、大台山、攻城山などの前進陣地を落とし、要塞の包囲が完了しますが、その時点ですでに戦傷死5520名と少なからぬ損害を被りしました。
そして、8月19日、第一次総攻撃開始。攻城砲280門による徹底した砲撃が行なわれ21日より歩兵の突撃が開始されます。日本軍の計画では突撃開始から1日で決着が付く予定でした。
しかし、巧みに火器を配置しコンクリートで固めた永久要塞の防御力は日本軍の想像を絶するもので6日間の激闘の末、参加兵力約5万人の31%にあたる15860名が死傷、部隊によっては連隊長・旗手以下幹部全員戦死などというとんでもない損害を被り総攻撃は頓挫しました。
10月26日、兵員・砲弾の補給を受けて戦力を立てなおした第三軍は二度目の総攻撃を実施します。今回は前回の総攻撃の反省に基づき、攻略目標の選定を慎重に行なった事や砲撃を入念に行なった事などにより目標4陣地のうち3陣地の奪取に成功、損害は参加兵力4万4千人に対し死傷4849名(11%)、日本軍は作戦の成功を宣言しました。(ただし、ロシア軍もこの戦闘の勝利を宣言しています)
しかし、この3地点の奪取こそ日本軍が要塞正面への攻撃に拘泥するきっかけとなってしまい、より多くの血が流れることになるのでした。
第二次総攻撃が成功したといっても、わずか3ヶ所の陣地を占領したに過ぎず、旅順要塞は健在。そのうち、ロシアのバルチック艦隊が旅順に向かい根拠地リバウ軍港を出航したとの情報が入ります。それぞれが日本の聯合艦隊に匹敵するバルチック艦隊と旅順艦隊が合同した場合、旅順封鎖で疲れきった聯合艦隊に勝ち目はなくなります。
ここに至り、日本軍は何が何でも早急に旅順要塞を陥落させなければならなくなりました。
地中から坑道を掘って敵陣地の破壊を試みたり、沿岸に備えつけてあった28センチ砲や艦艇に積みこんであった海軍の15センチ砲を持ちこむなど、あらゆる方式が取られますが旅順要塞は健在でバルチック艦隊は英国の妨害を受けつつも日本に近づきつつあり、おまけに満州の平原を進む陸軍主力も表面上は「連戦連勝」であるものの、ロシア軍の遅延戦術の前に「前に向かって敗走中」といったありさまで、いよいよ日本軍崩壊の危機が迫ってきます。
そこで、満州総軍(出征部隊の総司令部。指揮官・大山元帥)と大本営は本土に残留する最後の2個師団(旭川の第七師団と弘前の第八師団)の投入を決意、これにより常備13個師団の全てが大陸に送られる事となり、日本国内はまさに空っぽ、「逆さにして振っても鼻血も出ない状態」となりました。
明治37年8月4日に動員が下令され、8月17日までに動員を完了し出征準備体勢をとっていた第七師団に満州進発の命令が下ったのは10月18日、各部隊は逐次衛戍地を出撃、大阪を経由して海路大連を経て旅順に向かいました。
北海道の部隊の出動は西南戦争の別働旅団や日清戦争の臨時師団など、屯田兵時代に臨時部隊として出動した事はありましたが、正規師団としてはこの出動が初めてのことでした。
旅順に到着した第七師団に与えられた任務は「総予備」。11月下旬に予定されていた第三次総攻撃では、とりあえずは後方に留め置かれる事になりました。これは、軍司令部が強力な部隊を握ることで戦闘の推移に柔軟に対処する為とも、到着したばかりで地理に不慣れな第七師団が攻撃の足を引っ張る事を恐れた為とも、第三軍司令部や他の師団に面子の問題や「後から来て戦功をさらわれては堪らない」という考えがあった為とも言われていますが、実際の所は今となってはわかりません。
しかし、一端は予備となった第七師団ですが、旅順の戦況は完全編成の1個師団の予備という悠長な存在を許さず、総攻撃に呼応して要塞正面を夜間突破し旅順市街になだれ込む決死隊の「特別攻撃隊」が各師団混成で編成される事となり、第七師団はその主力として歩兵第25連隊(札幌)がこれに加わる事となりました。
第七師団の編成(一部)
野戦第七師団 師団長・大迫尚敏中将 参謀長・黒澤静夫歩兵大佐 参謀・白木淡歩兵少佐 副官・山崎義重歩兵中佐 経理部長・松本膳四郎一等主計正 軍医部長・林代次郎一等軍医正 獣医部長・田沢直考三等軍医正 | 第13旅団 (吉田清一少将) | 歩兵第25連隊(渡辺水哉歩兵大佐) |
歩兵第26連隊(吉田新作歩兵中佐) | ||
第14旅団 (斎藤太郎少将) | 歩兵第27連隊(奥田正忠歩兵大佐) | |
歩兵第28連隊(村上正勝歩兵大佐) | ||
騎兵第7連隊(白石千代太郎騎兵中佐) | ||
野戦砲兵第7連隊(鶴見数馬砲兵大佐) | ||
工兵第7大隊(佐藤正武工兵大佐) | ||
弾薬大隊(山内定規砲兵中佐) | ||
輜重兵第7大隊(大隈勲輜重兵少佐) | ||
野戦病院(坂本武戍・上原椎善・岡田頴斎三等軍医正) | ||
野戦兵器廠(内田尊徳砲兵少佐) | ||
衛生予備病院(青木宣満二等軍医正) | ||
留守第七師団 師団長・塩谷方国中将 参謀長・橋本三郎歩兵中佐 経理部長・河合光雄三等主計正 軍医部長・柴岡文太郎三等軍医正 獣医部長・天野多聞三等獣医正 停車場司令官・吉田清憲歩兵少佐 兵站基地司令官・進藤重知歩兵少佐 | 歩兵第25連隊補充大隊(真崎友吉歩兵少佐) | |
歩兵第26連隊補充大隊(坪井助太歩兵少佐) | ||
歩兵第27連隊補充大隊(山内正生歩兵少佐) | ||
歩兵第28連隊補充大隊(平岡鋼太郎歩兵少佐) | ||
後備歩兵第25連隊大隊(泉法輪歩兵中佐) | ||
後備歩兵第26連隊大隊(平地勝明歩兵少佐) | ||
後備歩兵第27連隊大隊(中川重之歩兵少佐) | ||
後備歩兵第28連隊大隊(牧村金蔵歩兵少佐) |
11月25日、総攻撃前日。「特別支隊」の幹部を集めて支隊長・中村少将(第1師団)による「特別支隊ハ最名誉ノ支隊ナリ。只一人モ生キテ還ルヲ期スベカラズ。決死以テ目的ノ達成ニ努ムベシ。(略)故ナク後方ニ止マリ、又ハ隊伍ヲ離レ、若クハ退却スルモノアラバ、幹部ニ於テ之ヲ斬殺スベシ。」という壮絶な訓示が行なわれ、同時に敵味方識別の手段として「白襷」を使用する事が取り決められ、以後、この部隊は「白襷隊」として知られる事になります。
11月26日払暁。第七師団のうち特別支隊に参加する歩兵第25連隊は旅順の正面、水師営北方の集結地へ、その他の部隊は予備として後方への展開を完了します。
午前八時。28センチ榴弾砲の砲撃開始、午後十時には各種重砲の砲撃も加わり旅順要塞は爆煙に包まれます。
午後一時。第十一師団工兵隊の陣地爆破を合図に第一師団・第九師団・第十一師団による突撃が開始されます。しかし、旅順要塞の鉄壁の防禦の前に突撃は頓挫、敵陣地に到達するかしないかの間に次々と日本軍将兵は倒れていき、第1次、第2次総攻撃の繰返しの感がありました。
午後五時。全方面の攻撃失敗を知った第三軍司令部は特別支隊に「松樹山、楊家屯、白玉山の占領〜要するに、進めるところまで進め〜」を発令します。
午後六時。特別支隊は最初の攻略目標である旅順要塞の正門ともいうべき松樹山麓に向けて進軍を開始。しかし、退却してくる負傷兵などと混宥してしまい混乱。さらには土地に不慣れな第七師団の第25連隊が「迷子」になるなど、苦戦を暗示するような幸先の悪い門出でした。
午後八時五十分。先頭の第一師団部隊が突撃開始地点に到達。後続の第十一師団部隊と共に突撃を実施しますが、ロシア軍が巧みに配置した保塁に阻まれ「将校尽ク死傷」の大損害を被ります。
午後九時三十分。第九師団の第35連隊と第25連隊の一部(約半数はまだ迷子中)が前線に到着、さっそく突撃を行ないますが先発の部隊と同じく反撃を受けて潰滅。そのうち指揮官・中村少将も倒れ、第25連隊長の渡辺大佐と交代します。
その後もロシア軍の保塁前で進退が窮まっている特別支隊めがけてロシア軍の銃砲弾は容赦なく降り注ぎ死傷者は続出、午前一時頃には戦線を支えきれなくなり敗走を始める部隊が出始めます。
午前二時時三十分。第三軍は特別支隊に退却を命令。しかし、通信が混乱してしまい、戦線に孤立しつつも四時ごろまで戦闘を継続していた部隊もあり、悲劇を拡大しました。
同じ頃、第七師団から第26連隊と第27連隊が増派されて望台攻撃にあたっていた第九師団の攻撃も頓挫、この日の攻撃は多数の血が流れただけで、なに一つ得るものはない大惨敗に終わりました。
特別支隊も死傷率75%弱、なかでも主力だった第七師団の第25連隊は1565名中、無事だったのは233名のみと80%近い大損害を被り潰滅しました。
11月26日の特別支隊参加各隊の損害
部隊 | 人員 | 戦傷死(比率) |
第一師団 歩兵第1・2連隊 | 832名(2個大隊) | 573名(68%) |
第七師団 歩兵第25連隊 | 1565名(2個大隊) | 1232名(78%) |
第九師団 歩兵第35連隊 | 345名(1個大隊) | 265名(76%) |
第十一師団 歩兵第12連隊 | 332名(1個大隊) | 210名(63%) |
特別支隊合計 | 3074名(6個大隊) | 2290名(74%) |
かくして第三次総攻撃も失敗。いよいよ切羽詰まった第三軍はせめて海軍が攻略を要求し続けている「二百三高地」だけでも攻略すべく矛先を二百三高地に転じます。
11月27日午前十時、28センチ榴弾砲および砲兵第2旅団の野砲による砲撃が開始、ロシア側も日本軍の攻撃目標が二百三高地に転じた事を察知し、防御部隊を増強、日本軍の突撃に備えます。
午後六時より第一師団の攻略部隊が二百三高地とその周辺の老虎溝山、化頭溝山に突撃を開始、しかし、他の正面より防禦が弱いとはいっても強固な陣地である事は変わりなく、攻撃路が狭く斜面も急であった為に例によって大損害を被り、かろうじて占領した二百三高地西側陣地もロシア軍の逆襲に逢い、午後十時までには突撃陣地に押し戻され、攻撃初日の戦果はありませんでした。
11月28日。払暁から第一師団が突撃を再開。いったんは大損害を被りながらも二百三高地西側頂上を占領しますが、ロシア軍の逆襲に逢い頂上に居た将兵は全滅。一方、東北部方面も突撃準備中に連隊長が戦死、士気喪失してしまい突撃体勢に移れなくなってしまいました。苦戦の中、第三軍司令部は予備の第七師団より第25連隊の一部を第一師団に増派、突撃の続行を指示します。
午後一時四十分。増援を受けた第一旅団は突撃を再開しますが、陣地を出たところで集中砲火を浴びて突撃隊は忽ち全滅、攻撃はまたしても頓挫します。
午後四時。第一師団は二百三高地の東北部および西南部、老虎溝山に対する総攻撃を企画します。ところが、通信の乱れから西南部隊が突出してしまい、またもや大損害を被ってしまいます。
翌午後零時三十分。ロシア軍の反撃が開始。二百三高地西南部に張りついていた突撃隊は忽ち駆逐され、東北部の突撃隊ともども突撃陣地に押し戻されてしまいます。急報を受けた第一旅団は増派されていた第25連隊を投入しますが、なれない土地の夜間移動で混乱、これもロシア軍の攻撃を受けて敗退してしまいます。
11月29日。第三軍司令部は予備の第七師団全力を投入した最後の総攻撃を決意。攻撃隊指揮官を第一師団長・松村中将から第七師団長・大迫中将に代えます。
新指揮官となった大迫中将は第七師団将兵の地理不慣れを解消すべく偵察を徹底すべく総攻撃を11月30日午前十時に延期します。
11月30日、第一・第七師団による二百三高地総攻撃が開始されます。しかしながらこの日も今まで同じく前進陣地をいくつか取ったり取られたりで終始、損害ばかりが増えて行きます。
同夜、夜襲により二百三高地の西南・東北山頂を占領。「二百三高地占領」の報に第3軍司令部は沸き立ちますが、続いて行なわれたロシア軍の逆襲に山頂にいた将兵のほとんどは戦死、またしても二百三高地から追い落とされてしまいます。
翌31日、大迫中将は二百三高地攻略指揮官を友安少将から第十四旅団の斎藤少将に変更、何とか戦闘を継続しようと尽力しますが、日本軍の息切れはどうしようもないレベルに達し体勢の経て直しを図るべく総攻撃を12月5日に延期します。
12月5日、この攻撃が失敗した場合はもう、どうしようもないという最後の総攻撃。防禦側のロシア軍も実は食糧が限界に達しつつあり最後の反撃という、まさに「旅順攻防の天王山」というべき最後の決戦が行なわれます。
突撃に次ぐ突撃の大激戦、正面を担当した歩兵第25連隊の渡辺連隊長や歩兵第28連隊の村上連隊長は軍旗と共に先頭に立って指揮を続け、「二百三高地は日本兵の屍で舗装された」と言わしめる大損害を出しながらも、北東部への戦力集中が効を為したのか203高地および老虎溝山に日章旗を翻らせる事に成功、ロシア軍の猛烈な逆襲も翌朝までには止み、ついに二百三高地は日本軍の手に落ちました。
203高地の陥落により軍港内の艦艇が尽く日本軍重砲の餌食となるようになり、要塞としての価値を著しく減じた旅順守備隊の気力は急速に萎え、第七師団は203高地の背後にある後三羊山を2日で突破、第一師団、第九師団の攻撃も成功、いよいよ旅順要塞の命運は朝夕に迫ります。
これに先立つ1月1日、旅順要塞の総司令官ステッセル大将は降伏軍使を送り降伏談判を開始、1月2日午後4時30分、開城談判成立して約半年に渡り日本軍を悩ませつづけた旅順要塞は遂に陥落しました。
この戦闘における第七師団の損害は戦死2081名、戦傷4676名。旅順攻略戦全体の損害は戦死15400名、戦傷44008名なので、比率で言えば10%強ですが、第七師団が要塞攻略に加わっていたのは全期間の1/5程度である事を考えると恐るべき数字であるとも言えます。
旅順要塞攻略の功績により第七師団に対し満州軍総司令官・大山元帥より感状が授与されました。
感 状 |
第 七 師 団 |
右ハ十二月五日旅順要塞ノ西北隅ニ位置スル標高二〇三ノ嶮山ニ敵兵ヲ攻撃シ就中歩工兵部隊ハ勇往猛進数回ノ突撃ヲ敢行シ遂ニ頑強ナル抵抗ヲ撃破シ以テ爾後ニ於ケル攻城戦並ニ海軍作戦発展ノ為ニ至大ノ影響ヲ及ホスヘキ要点ヲ奪取シタルハ其功績偉大ナリト認ム 依テ感状ヲ附与ス 明治三十七年十二月六日 |
満州軍総司令官 侯爵 大山 巌
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