北の足跡 琴梨編

琴梨ちゃんとの旅路 「北へ。」で訪れた土地の解説。でも、軍事ネタ(笑)

 第1回は琴梨ちゃんと訪れた土地について。
 琴梨シナリオは基本キャラだけあって札幌やその周辺への「観光」が多いのですが、夏編後半には家族旅行で道東方面に行くので、バラエティに富んだ旅を楽しむことができます。
 何故か小樽を重視しているようで、余市を含めると4回も訪れていますが、何か拘りでもあるんでしょうか・・


 ここで挙げた部隊の詳細については追々、「北海道戦史」の方で紹介していくと思います。
※上図の拠点間の移動経路についてはかなり適当です。

千歳

 夏編・冬編・PMともに主人公が北海道の第一歩を印す千歳は北海道の空の玄関口である。

 千歳にはじめて飛行機が着陸したのは大正15年であるが、マル四計画(戦艦<大和>や空母<翔鶴>と同期)により海軍航空基地として整備が開始され、昭和14年には戦闘機・中攻各1個からなる千歳航空隊が開隊、また、基地警備の為に若干の陸戦隊と4基の12.7センチ高射砲と2基の照空灯も配置された。
 昭和18年8月5日、キスカ島撤収作戦終了に伴い海軍の北方部隊の改組が行なわれ、第五艦隊と第十二航空艦隊をもって北東方面艦隊が編成、司令部は千歳に置かれた。(後に千島の片岡に進出)
 「海軍の縄張り」だった為か陸軍部隊は札幌憲兵分隊の分遣隊が置かれた程度で、大戦末期に苫小牧地区の防備についた独立混成101旅団も早来、追分、振老と千歳を避けるように展開した。

 現在の千歳は、かつての旭川を凌ぐ自衛隊の一大拠点、北の鎮の要といえる軍事的要衝であり、自衛隊最強(=東洋最強)の戦車師団である第七師団をはじめ、第一高射特科団や第一特科団など有力な部隊が多く駐屯、航空自衛隊もF15戦闘機隊を有する第2航空団やパトリオット(自衛隊での公式表記はペトリオット)を装備する第3高射群など多くの部隊を千歳に置いている。


札幌

 夏・冬・PMを通じて多くのストーリーの舞台となり、大半のヒロインが住む札幌は開拓時代から北海道の中枢都市として栄えた北海道最大の都市である。

 明治4年、西郷隆盛の腹心の桐野利秋が札幌の真駒内を鎮台適地とする報告を行なったが財政難で実現せず、札幌に軍が置かれるのは明治8年に琴似地方に屯田兵の第一陣が入植を開始したときからだが、その後は屯田本部などが設立され、第七師団(明治29年編制)が明治33年に旭川に移駐するまでは北方鎮護の中心地であった。
 第七師団の旭川移駐後は駐屯する正規の歩兵連隊は歩兵第25連隊のみ(歩25の樺太移駐後は歩兵第125連隊)となったが、主要動員源として多くの独立部隊や子部隊、孫部隊が札幌で編成された。また、北方担当の第一飛行師団の司令部も札幌におかれた。
 大戦中は北方全域の軍政・補充を担当する北部軍管区司令部および作戦指導を行なう第五方面軍司令部など北方における戦争指導の中枢となり、また、地区特設警備隊司令部や鉄道司令部など防空・本土決戦部隊なども札幌に多く置かれている。
 札幌は昭和16年制定の帝国陸軍国土防衛計画により防空要地に指定され、高射砲兵第24連隊のうち2個中隊が設置されていたが、結局、終戦まで大きな空襲を受ける事はなかった。

 現在は札幌中央部に北海道に展開する部隊の総司令部である北部方面総監部が置かれ、真駒内に第十一師団司令部と隷下部隊の大半が、飛行場のある丘珠に北部方面航空隊と第7、第11飛行隊、北方ヘリ隊が駐屯、また豊平には自衛隊病院が置かれている。


鷹栖(旭川)

 夏編初日に主人公に勧めるトマトジュース「オオカミの桃」の産地、鷹栖町は上川支庁に属し農業を基幹産業とする小規模な町である。

 一般に「軍都・旭川」とか「旭川第七師団」「旭川歩兵第27連隊」という言い方をするが、当時の行政区分では、これらの部隊の駐屯地は「旭川町鷹栖村」だった。
 広大な敷地(現在の陸自の旭川駐屯地もたいがいに大きいが、往事は近文台や春光台の演習地を除いても現在の3倍ぐらいはあったらしい)を持ち、第七師団隷下部隊のうち札幌の歩兵第25連隊と函館要塞重砲兵大隊以外の全部隊が旭川に駐屯していたが、一個師団がまるまる1ヶ所に駐屯していた常備師団は第七師団のみであった。
 以後、第七師団の本拠地として多くの子部隊、孫部隊を送りだし、また日露戦争や満州警備などで第七師団が出征中は補充・警備部隊として留守第七師団が置かれた。
 昭和19年、第七師団が帯広に移駐した後は第七十七師団が旭川に駐屯、さらに第百四十七師団も編成されたが、これらの部隊は本土決戦準備の為に他に転用された為に終戦時は旭川を含む上川地方は旭川師管司令部(留守部隊)が担当していた。

 現在は陸上自衛隊の第二師団の司令部と特科、後方支援、高射特科、通信などの各隷下部隊が駐屯、近文台には補給支処が置かれている。(現在の行政区分はいずれも旭川市)


小樽・余市

 夏編およびPMで訪れる小樽は札幌の外港として栄える歴史ある港湾都市である。

 小樽は札幌の外港という地位の為か、その経済的繁栄の割に軍の駐屯が無かった都市で、太平洋戦争までは旭川や札幌で編成された部隊の出征地・凱旋地として軍事史に記されるに止まっている。
 札幌とセットで防空要地に指定された為に開戦直前から高射砲や照空灯が進出。昭和18年4月からは歩兵第26連隊の一個中隊をもって編成された小樽警備隊が駐屯を開始、昭和18年中頃からは北方海上交通の要として第五船舶輸送司令部、第4野戦船舶廠や特設水上勤務第142中隊など船舶部隊なども続々と進出、さらには千島や樺太に向かう部隊、戻ってくる部隊なども加わり、かなり渾沌とした状態となった。
 海軍も地方武官府を開設、さらに大湊航空隊の一部を派遣して海上交通の管制や護衛に従事した。
 大戦末期には「昭和の屯田兵」「日本版パルチザン」などと呼ばれる国民戦組織「特設警備隊」も配置された。小樽に置かれた特設警備隊は在郷軍人で占められ多少は程度の良かった特設警備第354大隊と国民突撃隊というべき函館地区第3特設警備隊で、いずれも大半は在郷のまま決戦の日に備えていた。

 現在、道央への直接上陸の可能性は低いと判断されているのか、あるいは札幌と2つで1セットなのか、陸自部隊は小樽には配置されていないが海自は余市港に警備隊を設置している。


夕張

 夏編で摩周・屈斜路湖を訪れる途中に休憩に立ち寄った夕張はかつては炭坑の町として知られていたが廃坑により衰退した。しかし、最近はスキーや観光に加えメロン栽培など多角的な産業振興の努力が実っている。

 夕張は炭坑を有する戦略上の拠点ではあるが、内陸部にあり特に警備を要する理由も無い事から軍の駐屯は行なわれていなかった。
 太平洋戦争勃発後も特に夕張に部隊を置く必要は生じず、夕張にはじめて部隊が置かれたのは昭和19年1月で、在郷のまま警備任務に就く特設警備第330中隊が置かれた。その後、昭和20年3月には同じく在郷の本土決戦組織である札幌地区第4特設警備隊が設置され、そのまま終戦を迎えた。

 現在、夕張は第七師団管区であるが、部隊は駐屯していない。(札幌・千歳方面よりの夕張郡長沼には空自の高射隊が駐屯している)


帯広

 夏編で摩周・屈斜路湖を訪れる途中に昼食に立ち寄った帯広は十勝平野の中心地で古くから雑穀の産地・豆の都として知られたが、近年では近代的な農業や酪農で著しい成功を収めワインや小豆など「十勝」シリーズは全国的に高いネームバリューを持つブランドに成長している。

 帯広では昭和8年ごろから飛行場を設営したりして軍隊誘致運動を進めていたが、皮肉にも帯広に本格的な軍隊がやってきたのは開戦による道東の防御力強化、さらには戦局の悪化に伴う本土決戦準備の為で昭和17年に高射砲兵第24連隊が進出してきたのを皮切りに飛行第一師団、戦車第22連隊など多くの部隊が進出、さらには第七師団がまるごと移駐してきて、それまでの軍都・旭川を凌ぐ一大軍事都市の様相を示した。
 終戦間際の昭和20年7月14日と15日の初の北海道空襲で帯広もB29および艦載機の空襲を受ける。このとき防空の要の高射第24連隊は移動中、戦闘機隊も迎撃を諦めて退避した為に軍都・帯広は僅か4門の高射砲で応戦する羽目に陥るが損害は軽微だった。(隣町の本別町−戸数800−は執拗な攻撃を受けて潰滅している。おそらく、帯広と間違えられたものと思われる)

 現在、帯広には第五師団の司令部と特科や後方支援などの隷下部隊、第4普通科連隊、第1対戦車ヘリコプター隊などが駐屯している。


摩周(阿寒周辺)

 夏編で行なわれる春野親子(と主人公)の家族旅行の目的地である阿寒地区(阿寒・弟子屈・屈斜路・摩周)は壮大で美しい自然の残る北海道有数の観光地である。

 この地域には特に重要な施設が有る訳でもなければ交通の要衝でもない全く平和な地域であるが、「北海道決戦」の第一ラウンドにおいて釧路・根室・網走方面に上陸した連合軍を阻止できなくなった場合、この地域まで後退して抗戦を行なう事になっており(つまり、釧路の歩兵第27連隊、捜索第7連隊、特設警備第320中隊、霧多布の特設警備第331中隊、計根別の第305特設警備工兵隊、根室の根室防衛隊、独立歩兵460大隊、網走の特設警備第318中隊などの「玉砕地」として予定されていた)連絡の為の道路建設の準備などが進められていた。

 現在、摩周湖周辺には自衛隊部隊は展開していないが50kmほど離れた中標津の計根別には空自の高射部隊が所在している。


函館

 冬編で訪れる函館は、北海道の海の玄関口であり、最古の開港の一つとして古い歴史をもつ異国情緒溢れる港町である。

 明治初頭に函館戦争が行なわれた土地で、その後も「函衛隊」「函館護衛兵」「函館砲隊」が置かれ、明治六年からは青森の第5連隊から一個大隊が分屯、函館要塞が建築されるなど他の地域とは「別枠」扱いされていた。
 函館要塞の本来の任務は函館山に備えつけられた28センチ榴弾砲を以って函館地域を防禦する事であったが、後により長射程の砲が汐首岬や白神岬、対岸の竜飛岬などに設置され津軽海峡封鎖を目的とした津軽要塞に改変された。
 しかし、戦局の悪化に伴い千島等からの兵力の抽出と特設警備隊の編成が行われ、終戦の時点では津軽要塞司令部の隷下部隊は本来の要塞重砲兵連隊と要塞歩兵隊2個の他に独立野砲兵第36大隊、独立歩兵第285大隊・第290大隊、特設警備第356大隊などが加えられ、さらに地区特設警備隊司令部と警備隊2個が置かれる道南防禦の中心地となっていた。
 また、海軍は函館に地方武官府を設置、陸軍も第五船舶司令部の支部を設置して海上護衛戦に従事、防空部隊も独立高射砲兵第31大隊が進出していたが、昭和20年7月14・15日の空襲では在泊の連絡船がほぼ全滅する大損害を被った。

 現在、函館には陸上自衛隊の第28普通科連隊が駐屯しており、海上自衛隊も警備隊を置いている。


グレートバリアリーフ(珊瑚海)

 北海道ではないが、春編(ハッピーED)で訪れるグレートバリアリーフはオーストラリアの北東部、珊瑚海に面した広大な珊瑚礁で地上で最も美しい海岸の一つとされている。

 昭和17年、南方資源地帯の確保に成功した日本軍は米豪遮断の為にニューギニアのポートモレスビー攻略を計画、井上中将率いる空母3隻、重巡6隻、軽巡3隻を中核とする攻略部隊(機動部隊指揮官は原少将)を珊瑚海に進出させ、対する連合軍はフレッチャー少将率いる空母2隻、重巡7隻、軽巡1隻で待ちうけた為に5月7日〜8日、史上初の空母対空母による航空戦である「珊瑚海海戦」が行なわれた。
 近代戦はミスの少ない方の勝ちともいうが、この闘いはまさにその典型で索敵ミスでタンカーを攻撃するわ、敵と味方を取り違えて味方を爆撃したり、敵空母に着艦しようとしたりで双方がかなり混乱をきたしたが、結局、2日に及ぶ母艦航空戦で双方とも航空戦継続能力を失い珊瑚海から撤収した為に海戦は集結した。
 2日間で両軍とも空母1隻沈没・1隻撃破となったが、日本軍が失った<祥鳳>は給油艦改造の軽空母なのに対し連合軍の<レキシントン>は巡洋戦艦改造の大型空母だったので戦術的には日本軍の「判定勝ち」とも言えるが、肝心のポートモレスビー攻略は中止、さらに残った空母<瑞鶴>も航空機の損害が激しく続くミッドウェイ作戦に参加不能となり、対する連合軍は傷ついた<ホーネット>を突貫工事で戦列に復帰させるのに成功させた為に3:2だった正規空母比率は4:3まで低下、ミッドウェイ作戦の大敗北に繋がる大きな失点となった事から戦略的には敗北とも言われている。


支笏湖

 PMで訪れる支笏湖は原生の自然の豊かな美しい景勝地である。

 山の中の湖で西岸に温泉町がある他は何も無く、交通の便も悪い事から軍事的・経済的な価値は果てしなく低いが、それ故に本土決戦においては苫小牧・石狩方面が打通され、道央の保持がいよいよ困難になった場合、残存部隊は恵庭岳〜樽前山方面を複郭として支笏湖周辺に立て篭もって持久抗戦を行なう予定となっており、簡単な調査が行なわれたが兵力、資材、時間のいずれもが不足していたため、それ以上の工事は行なわれなかった。

 現在、支笏湖周辺に自衛隊部隊は配置されていない。