北の足跡 めぐみ編

めぐみちゃんとの旅路 「北へ。」で訪れた土地の解説。でも、軍事ネタ(笑)

 第2回はめぐみちゃんと訪れた土地について。
 夏編では舞台が札幌・小樽から美瑛・富良野に移りますが、旅行ではなく牧場の手伝いが目的なので、観光は近場中心。ラストでは留萌で海水浴。
 PMでは支笏湖=登別=洞爺湖と胆振方面の温泉地をぐるっと廻るコース。子供っぽいめぐみちゃんにしてはかなり渋い目のコースでした。


 千歳、札幌、支笏湖、函館は琴梨編で既出の為、千歳・支笏湖については別枠の解説、その他については省略します。


※上図の拠点間の移動経路についてはかなり適当です。

美瑛・富良野

 夏編で牧場の手伝いをして数日を過ごすことになる美瑛および滞在中に遊びに出かける富良野は「花咲き乱れる北海道」のイメージどおりの丘の街として知られる。

 美瑛には大規模な陸軍の演習場があり、大正15年8月には「化学弾効力試験」として化学兵器の実験が行なわれたと記録にある。
 また、昭和16年7月、対ソ連戦を考慮した防空力強化が行なわれる事となり、美瑛に第1〜第4防空監視隊が美瑛で編成され、防空教育の後に樺太と道南に配置されている。
 終戦時、美瑛には要塞建築勤務第4中隊(京都)が所在、旭川周辺の防禦を担当する旭川師管と道東の防禦を担当する第七師団の担任境界線である狩勝峠に陣地を構築していた。

 現在は陸上自衛隊の第二師団のうち第4特科群、第2戦車連隊、第3地対艦ミサイル連隊が駐屯している。(現在の行政区分は上富良野町)


浜中(留萌)

 夏編最終日に訪れる浜中海水浴場のある留萌は美しい海岸線の続く景勝地である。

 留萌は道北の付け根に位置し、稚内から南下してくる敵軍を石狩平野や上川盆地に入られる前に食い止める最終防衛ラインだが、南樺太が日本領であった事やソ連とは不可侵条約を結んでいた事から宗谷海峡方面は上陸阻止より封鎖の方に重点が置かれ、留萌にも特に部隊が駐屯する事はなく、大戦末期でも警備・抗戦組織である特設警備第313中隊と旭川地区第3特設警備隊が置かれたのみだった。
 スターリンは留萌−釧路のラインをソ連の占領担当境界としてアメリカに提案するなど北海道に領土的野心を持っており、樺太に駐留していた第八十八師団らの勇戦が無ければ留萌は「日本社会主義人民共和国(仮称)との国境の街」となっていた可能性すらあった。

 現在、留萌には第二師団のうち第26普通科連隊が駐屯している。


登別

 PMで訪れる登別は1日の湧出湯量1万トン、11種の泉質を誇る道内屈指の温泉地である。

 軍事的に重要な何かがある訳ではない土地で平時の軍隊の駐屯も無かったが、防空や警備に関して室蘭地区の端にあたる為、防備計画などではしばしば名前が出てくる。
 本土決戦においては、苫小牧地区に上陸した敵主力は札幌を目指し、一部が海ぞいに室蘭を目指すものと想定されており、登別はその外縁陣地として2個中隊が配置につき、「北海道決戦」に備えていた。
 また、富浦には陸軍の特攻艇(モーターボートに爆薬を搭載して体当たりする自殺攻撃艇)の洞窟基地が建設されていた。

 現在、登別に自衛隊部隊は駐屯していないが、両隣の白老と幌別には補給支処と第13施設群がある


洞爺湖

 PMで訪れる洞爺湖は有珠山や昭和新山など活発な火山と美しい湖で知られる温泉地である。

 洞爺湖畔の虻田には室蘭に送電している発電所があり、防禦上は室蘭の一部とされた為に室蘭警備隊の防禦担当地域に組み入れられ、室蘭配置の防空部隊の一部が派遣されていた時期もあった。
 本土決戦においては室蘭警備隊の正面は苫小牧方面と想定された為、裏口にあたる洞爺湖方面には虻田に一個小隊、伊達館山に1個中隊が配置が予定されていたが、この方面に敵が出るような事態になれば、もうどうしようも無いという状態であり、特に戦場になる事は想定されていなかった。

 現在、洞爺湖方面に自衛隊の部隊は所在していないが、2000年の有珠山の噴火では各地から部隊が出動、救難活動にあたった。


千歳・支笏湖

[支笏と死骨]

 千歳地方は本来のアイヌ語地名はシコッ(窪地)であったが、「死骨」に繋がり縁起が悪いというので街の方は開拓者により「千歳」と改められ、湖の方だけが元の名前が残ったという歴史がある。

 本土決戦において支笏湖周辺を複郭として抗戦を持続する計画であった事は既に述べたが、その他、苫小牧、石狩、胆振、小樽方面が戦場となった場合の住民の避難先としても予定されていた。
 しかし、道央の旭川師管や独立混成101旅団などがいくらがんばった所で、道東の第七師団や宗谷海峡の第四十二師団はおそらく既に潰滅しているだろうし、内地から強力な増援がやってくる望みも極めて薄く、結局は沖縄やサイパンと同じ運命を辿る事は想像に難くなく、支笏湖を本当に死骨湖にしてしまうところだった。


札幌

[札幌兵の活躍]

 明治10年10月28日、「陸軍平時編成及び新設増隊人馬増減着手序列改正」という、呪文のようなものが施行、第七師団独立歩兵大隊を改組して札幌月寒に歩兵第25連隊が開庁した。
 歩兵第25連隊は昭和15年に樺太の上敷香に移駐するまで第七師団の頭号連隊として日露戦争、シベリア出兵、サガレン派遣、ノモンハン事変など活躍、なかでも日露戦争の旅順攻略における「白襷隊」の勇戦と悲劇は特に知られている。
 歩25の上敷香移駐後、札幌で新たに歩兵第125連隊が編成され、盛岡の第六十七独立歩兵団に配属されたが、後に樺太混成旅団(後に第八十八師団に改組)に移され樺太の護りに就いた。
 歩25、歩125は昭和20年の日ソ開戦により樺太に侵攻してきた圧倒的勢力のソ連軍を相手に善戦、8月15日以降も侵攻を続けるソ連軍に相手に抵抗を行ない住民の避難を大いに助けた。もし、第八十八師団の抵抗が無ければソ連軍が北海道にも上陸して民族分裂の悪夢が日本でも起きていたかもしれない。