北の足跡 ターニャ編

ターニャとの旅路 「北へ。」で訪れた土地の解説。でも、軍事ネタ(笑)

 第3回はターニャと訪れた土地について。
 ターニャは社会人なので学生さんのように夏休みではなく、夏編は小樽から動かず。「お休みが貰えた」PMでは道北方面を攻めています。
 作中では毎日一端別れるみたいな事を言ってますが、小樽から利尻島って、行って帰ってくるだけで1日が終わってしまうと思うのですが・・・

 千歳、札幌、小樽、函館は琴梨編で既出ですが、函館のみ追加解説します。



※上図の拠点間の移動経路についてはかなり適当です。


函館

[日露戦争と函館要塞]

 日露開戦劈頭の2月11日、通商破壊に出たウラジオ艦隊が青森県ヘナシ崎沖で小樽に向かう商船<那古浦丸>を撃沈、津軽海峡を目指して北上した。当時、洋上の艦艇と地上の砲台では砲台が有利とされ、函館要塞は巡洋艦4隻のウラジオ艦隊のどうこうできる相手ではなかったのだが、陸海軍や警察、支庁の対応の拙さと情報の漏洩により「ウラジオ艦隊、津軽海峡に向かう」「青森沖で商船1隻沈没」が報が「江差が砲撃を受ける」「福山陥落」「明朝は函館が攻撃を受ける」を経て「函館は保し難し」に化けてしまい、市内はパニック状態となり死傷者が出る大騒ぎとなった。
 支庁や陸海軍は正しい情報の浸透を図る一方で軍備を強化して事態の沈静化に勤め、第七師団からの増援も到着し戒厳令が施かれた事もあり14日頃になってようやく沈静化した。

 ちなみに日露戦争開戦当時の函館要塞は函館山の御殿山砲台に28センチ榴弾砲10門、千畳敷砲台に28センチ榴弾砲6門、15センチ臼砲4門、薬師山砲台に15センチ臼砲4門、立待岬の立待岬砲台に9センチ加濃砲4門で兵力は要塞重砲兵大隊1個が駐屯、戦時には第八師団から後備第5連隊(青森)と後備第31連隊(弘前)が来援する予定になっていたが、青函航路途絶の為に来援できず、変わりに前述のとおり第七師団から歩兵第28連隊(旭川)の1個大隊が来援した。
 海軍も大湊から海防艦<高雄>と水雷艇4隻を派遣、函館湾内に機雷を敷設するとともに函館山山腹に仮設砲台を設置して防禦を固めていた。

 日露戦争後も要塞の整備は続けられ、大戦の頃までには津軽海峡全域をカバーする大要塞地帯(津軽要塞と改称)に拡張されており、世が世なら函館山など女の子といちゃいちゃできるような場所ではないところだった。(少なくともターニャは絶対に近づけない・・)


ナホトカ(沿海州)

 ターニャの故郷であり、春編(ハッピーED)で訪れるナホトカはロシア沿海州に属し、日本海に臨む港湾都市である。1993年にウラジオストック市が開放されるまでは日本国領事館も置かれ、ロシアの太平洋側の窓口として栄えていた。

 日露戦争では朝鮮半島北部のロシア軍駆逐を目的に北韓軍(明治38年編成・主に後備兵で編成された)が編成された際に「状況が許せばウラジオストックとその周辺を奪取」という事になっていたが、実際は奉天方面で手一杯であり実際にロシア領に侵入する事はなかった。
 第一次世界大戦中の大正7年にロシア革命が勃発、独墺と停戦した為に新たに「西部戦線」を構築する必要が生じた事やチェコ軍がシベリアで孤立してしまい救出する必要が生じた事から連合軍はウラジオ・シベリア方面への出兵を決定、日英米仏伊支の6ヶ国連合軍「ウラジオ派遣軍」が編成、司令官は全戦力の1/2近い第三師団(名古屋)、第十二師団(久留米)の2個師団を出した日本から大谷大将が選ばれた。
 「ウラジオ派遣軍」はウラジオストック付近に上陸、沿岸州を北上しハバロフスクからシベリアに入り、一部は満州里やチチハル方面から越境してシベリアに進入、英仏軍とチェコ軍はそのまま西進、日本軍と米中軍は沿海、黒竜、サバイカル州を占領してオムスクに反共産政権を樹立させたが、革命軍の勢力は著しく闘いは泥沼化してしまい、日本軍は常備師団の約半数に及ぶ10個師団を投入するが、大戦の終結による状況の変化や国内世論や外圧により大正11年に撤収した。

 ナホトカは戦後、シベリアに抑留されていた人達が祖国に帰る船に乗船した港としても知られている。(行き先は舞鶴が多かった)


稚内

 PMで訪れる西稚内海水浴場のある稚内は我が国最北の都市である。

 稚内は宗谷海峡を扼する要衝として日露戦争の頃にはバルチック艦隊やウラジオ艦隊を見張る監視台が設けられたりしているが、本格的に防備が行なわれたのは昭和5年に宗谷要塞の建設が開始されて以来で、昭和16年には15センチ加濃砲8基(他に砲床4ヶ所)と12センチ榴弾砲8基、7センチ野戦高射砲2基などが配備されていた。
 開戦後しばらくは後方であるし(当時、南樺太は日本領)、宗谷海峡を封鎖してもソ連を刺激するだけなので大兵力の配置は避けられていたが昭和20年に入ると上層部の千島決戦から北海道決戦への思想転換や敵潜の跳梁、ソ連との関係悪化もあり、千島方面から第四十二師団(仙台)が引き抜かれて宗谷要塞の護りに就けた。
 昭和20年8月の段階で納沙布岬(稚内市街含む)に歩兵第158連隊(新発田)と高射砲4基、高射機銃6基、要塞砲6基が、宗谷岬に歩兵第129連隊(若松)と歩兵第130連隊(仙台)と要塞砲8基が配置され、さらに海軍の特攻艇基地と重砲が置かれる事になっていたが、これは実施されるまでに終戦となった。
 また、稚内は船舶部隊の配置上は樺太方面とされ、第五船舶輸送司令部大泊支部の稚内出張所がおかれ稚内船隊が編成され、船舶工兵第43連隊も配備されていた。
 これらの正規部隊の他、本土決戦用の国民抗戦部隊として旭川地区第4特設警備隊も稚内に置かれ本土決戦に備えていた。

 現在、自衛隊は稚内に第301沿岸監視隊を配置している。(礼文と分屯)
 また、稚内には過去に航空機事故などで脚光を浴びたレーダーサイトもある。(大韓航空機撃墜事件)


礼文・利尻島

 PMで訪れる礼文・利尻島は高山植物などが咲き香り「花の浮島」などとも呼ばれる美しい島である。

 一応は宗谷海峡を望む要地ではあるが、すぐ隣の稚内と大泊を宗谷要塞として整備していた事から、戦前や開戦直後は特に防備はされず、海軍が礼文島に特設監視所を設けていたに過ぎなかった。
 昭和18年、戦争が激化に伴い軍の空白地帯を埋める目的で特設警備中隊が編成される事になり、礼文島に特設警備第309中隊が、利尻島に特設警備第310中隊が編成され、終戦まで同島の警備任務に就いた。
 特設警備中隊は通常は本部要員の士官・下士官数名だけで組織され、必要に応じて予備役兵や国民兵役兵を防衛召集する定員150名弱の部隊で、武装は小銃のみと戦力としては無いに等しく、もし宗谷海峡侵攻作戦が行なわれても、主導が米軍だったりしたら沖縄の属島のように「黙っていれば」見逃してもらえた可能性さえある。

 現在、自衛隊は礼文島に第301沿岸監視隊を配置している。(稚内と分屯)