北の足跡 鮎編

鮎ちゃんとの旅路 「北へ。」で訪れた土地の解説。でも、軍事ネタ(笑)

 第4回は鮎ちゃんと訪れた土地について。
 夏編では色々出歩くのですが、近場が多くて札幌と小樽のみ、PMは道東方面な筈ですが、なぜか最終日は大迂回して道北に泳ぎにいきます。


 千歳、札幌、函館は琴梨編で既出の為、省略します。


※上図の拠点間の移動経路についてはかなり適当です。

網走

 PMで鮎と訪れる網走は高倉健の映画で一躍有名になった網走刑務所で全国的に有名である。

 網走は上陸適地があり、後背には美幌・女満別などの良好な航空基地がある事から比較的早くから防備が進められており、昭和18年には第四十七師団(旭川)の一部を以って編成された第31警備隊が網走に進出している。
 昭和20年、独立混成101旅団の編成に伴い第31警備隊は独立歩兵大隊に改組されて標茶に移動、代わりに第七師団から歩兵第28連隊(旭川)が進出して網走方面の警備につき、本土決戦の準備中に終戦を迎えた。
 この他、船舶部隊として船舶工兵第27連隊、独立海上輸送第四中隊、第三船舶団網走支部などがあり、主に千島・樺太方面との連絡を担当した。
 海軍は戦前から美幌に航空基地を建設、航空隊も編成され、昭和16年12月10日、「史上初めて航空機が航行中の戦艦を撃沈した」ことで航空戦史にその名が刻まれているマレー沖海戦で英戦艦に一番槍をつけた九六式陸攻は美幌航空隊の所属機だった。
 開戦後は北の女満別にも飛行場がつくられ、西の能取湖にも水上機基地が設定されていた。

 現在は陸上自衛隊の第五師団の第6普通科連隊と第5特科連隊の一部、第1特科群の一部が美幌に駐屯している。


サロマ湖

 PMで訪れるサロマ湖は我が国第三位の大湖であり、全長20kmの長大な砂洲が特徴である。

 サロマ湖岸の湧別には明治30年に屯田兵第4大隊のうち399名が移住、開墾を行なうと共に北辺の護りについたが、明治36年に解散となり、その後は昭和18年に特設警備隊が編成されるまで、軍隊とは縁の薄い地域であった。
 昭和18年、戦局の悪化に伴い正規部隊の駐屯しない空白地域で治安維持や潜水艦や航空機の監視、小規模な上陸部隊の破壊工作阻止、敵機の脱出乗員の逮捕強力などの警備行動を目的に特設警備中隊が編成される事となり、興部に特設警備第316中隊、湧別に特設警備第317中隊、紋別に特設警備第318中隊が編成された。これらの部隊は主に在郷軍人(除隊者)で編成されていたが、数人の本部要員の他は在郷のまま(平時の仕事を行なう状態のまま)待命とされ、必要に応じて召集される事になっていた。
 北海道決戦において、網走国支庁は第七師団の担当区域であったが、昭和20年5月15日以降はサロマ湖を含む遠軽警察署管轄地域(東半分)は旭川師管区司令部の担当となり、同部隊の一部は中湧別方面に進出、陣地を設定中に終戦となった。
 本来、師管区司令部は補給や補充など留守業務を行なう軍政部隊であり、旭川師管区司令部に警備担当地域があるのは不自然で、さらに師管区司令部には上級部隊として軍管区司令部があるが、北部軍管区には旭川師管区しか存在せず、担当範囲が完全に重複して「部隊の取り合い」が起きるという、「それどころの話じゃないだろう」的な事が起こっていた。

 現在は陸上自衛隊の第二師団の第25普通科連隊が遠軽に駐屯している。


稚内

 [波乱の生涯]

 稚内には大湊要港部の宗谷防備部隊の艦艇が良く出入りしてた。この部隊の主力は砕氷艦<大泊>、特設砲艦<千歳丸>、運送艦<宗谷>などだが、いずれも波乱の生涯を送った功労船とされている。
 <大泊>は日本海軍が初めて建造した(そして最後となった)砕氷艦。常に北洋にあり、<宗谷>とコンビを組んで測量や漁業保護に従事、予備艦となる事なく、つねに働きつづけ遥か北氷洋で活動した事もある日本海軍屈指の功労艦。戦争を生き延びたが、機関不調だった為、復員業務に使用されることなく解体。
 <千歳丸>は日本郵船が横浜=サハリン航路向けに建造した砕氷貨客船。戦争中は海軍に徴用されて特設砲艦兼特設砕氷艦として北洋の警備に活躍、戦後は復員船を経て東京=沖縄航路に就役した。2000総トン余りの小船ながら北に南に活躍した功労船である。
 <宗谷>は日本船舶で最も波瀾に富んだ生涯を送った船の1隻とされる。ソ連向け耐氷貨物船<ホロチャベツ>として起工するが、完成直前にキャンセルとなり辰南汽船所属<地領丸>を経て海軍運送艦<宗谷>として北洋警備に就いた。戦争中はラバウルに進出して測量などに従事した時期もある。戦後、解体が予定されたがすんでの所で海上保安庁に拾われ灯台補給船として再出発、昭和31年には南極観測船に改造され6次の南極観測に従事、37年から海上保安庁の巡視船に復帰、昭和53年に引退したが、東京の船の科学館で係留保存される事となり現在も健在。40年にわたり北洋から南氷洋まで駆け巡った功労船中の功労船。