昭和6年度計画の水雷艇。本艇は仮想艦である。

 軍縮条約では600トン以下の艦艇については速度・兵装ともに制約が無かった為に駆逐艦の不足を補う目的で建造された。

 用兵側の30ノット、12センチ砲3門、61センチ魚雷3連装1基(搭載雷数6)という極端な重兵装の要求に対して、大正14年に艦政本部第四部長に就任して以来、設計組の主流をなす平賀譲造船中将とその一派の猛烈に反対。事態は紛糾し、艦本の技術者の「味方殺しの船を作れというのか。軍令部は英米の手先か!」の台詞に対し、軍令部の参謀が抜刀するなど、血の雨が振りかねない逼迫した空気の中で本艇は生まれた。

 水雷突撃に於いては味方水雷戦隊や巡洋艦部隊が開啓した突撃路を使うという事で、主砲は自艦防御用の12センチ砲1門のみとし、速力についても28ノットに妥協、そのかわり、1万トン重巡の雷装廃止などで低下した艦隊の雷撃力を補う意味で雷装については要求どおりの強雷装艦となった。(ただし予備魚雷は搭載せず)

 本型は使い勝手がよいため、様々な任務に投入され、特に長江の遡上作戦ではその軽快性を活かして大活躍した。
 本型は改良型を含めると32隻が建造され、さらに後継型16隻の建造が計画されたが、軍縮条約の破棄に伴い計画は中止された。

 太平洋戦争では主に船団護衛や哨戒作戦に投入、自慢の雷装を使用する機会はほとんど訪れず、ほとんどの艇は魚雷を降ろして対空機銃や爆雷を増設した為、「水雷を持たない水雷艇」という、少し不思議な艇となった。
 <千鶴>は太平洋戦争では主に東支那海での船団護衛に従事。
 他の水雷艇ともども、地道に日本帝国を支えたが昭和20年5月14日、バシー海峡で米潜<ウィロウ>の雷撃を受け沈没、6月15日に除籍された。

千鶴要目(新造時)

 名  称   千鶴
 建造時期  昭和9年8月10日
 基準排水量  633トン(公称590トン)
 全  長   90.5m
 水 線 幅   7.6m
 吃  水   2.7m
 主  機   艦本式ギヤードタービン 2基
 推 進 軸 2軸
 主  缶   ロ号艦本式水管缶 
 出  力   13000馬力
  計画速力  28ノット
 航 続 力 14ノットで3000浬
 燃料搭載量  重油290トン
 乗  員   120名
 兵  装   12センチ45口径単装砲 1基
  12.7ミリ単装機銃 2基
  61センチ3連装魚雷発射管 1基