日本式人事と第一航空艦隊

 一般に日本海軍の人事は硬直した年功序列、アメリカ海軍のそれはフレキシブルな実力本位のシステムであった、と言われています。
 たしかに、アメリカ海軍の採用した任務部隊制度は戦時における人事システムの奇跡のようなシステムですし、日本軍が年功序列で身動きが取れなくなっていたのは事実です。
 しかし、悪しき年功序列制度の典型、それゆえにミッドウェイで壊滅したとされる第一航空艦隊の人事は、本当にそうだったのでしょうか。

 艦隊司令長官に南雲中将(水雷出身)、参謀長に草鹿少将(砲術出身)といずれも航空戦には専門外の提督が航空に深い理解のある小沢中将や山口少将、航空科出身の大西少将や吉良少将を押さえての補任で、なるほど、硬直人事のようにみえます。

 しかし、第一航空艦隊にはもう1つの要素がありました。
 航空参謀の源田中佐、飛行総隊長の淵田中佐。いずれも海軍航空のパイオニアとして極めて高い評価をうけており、実際、第一航空艦隊は「南雲艦隊ではなく、源田艦隊だ」といわれるほど、その手腕を存分にふるいました。
 首脳部は最初から第一航空艦隊を源田中佐にまかせるつもりで南雲提督を長官に据えたのではないでしょうか。
 だとすれば、中佐が艦隊の実権を握るわけで、王族でもない限り近代はおろか中世でもあまり類を見ない、柔軟すぎて溶け出すような「大抜擢」ではないでしょうか。

 もともと、日本には組織の最上級者はどっしりと構えていれば良い、という所が古来からあり、さらに参謀の権限の強いドイツ流のシステムの流入や、明治中期の急激な軍事システムの変化で維新の元勲が陣頭指揮を取りたくても取れないという現実も手伝い、最高指揮官ではなく参謀が指揮をとる、「統帥すれど指揮せず」ともいうべき、奇妙な軍事システムが出来上がりました。
(だいたいにして日本の戦争指導部署たる大本営は「陛下の帷幕」であり、軍首脳は「陛下の参謀」な訳だから、参謀が実権を握るのは本質的なものなのかもしれない)

 「人格者の最高指揮官と実務家の参謀」。それまでで最大の国難であった日露戦争において陸軍はトップの大山=児玉をはじめとして黒木=藤木など各軍ともこの構成をとり、海軍も苛烈な日高提督を更迭して東郷提督をトップに据え、島村、秋山といった英才を参謀として配し、大成功を収めました。

 空母戦というのは、従来の水上戦闘と一線を画する画期的な戦いであり、首脳部はこの新しい戦いを甲州軍法やフランス流から一転してドイツ流(メッケル流)に転換を行った日露戦争にだぶらせたのかもしれません。
 とくに、淵田中佐は階級的に飛行隊長職は適当ではなかったのですが、あえて格下の前線指揮官につきましたが、思えば内相兼台湾総督から格段に格下の参謀次長についた児玉大将を彷彿させないでもありません。

 源田中佐や淵田中佐といった参謀や前線指揮官が実権を握るのであれば、小沢中将のように空母戦に一家言あるような提督や、山口少将のような苛烈な提督では衝突を起こしかねないし、あるいは大西少将など源田中佐や淵田中佐の直接の先達にあたる提督が居るのではやりにくいということで、あえて先任順とし、人格者として知られた南雲中将と草鹿少将が選ばれたのではないでしょうか。

 しかし、南雲中将は東郷中将ではなく、草鹿少将は島村少将でなく、源田中佐は秋山中佐でありえませんでした。
 このシステムは指揮官の性格と参謀の能力のいずれかにでも一点の陰りがあると破綻するきわどいシステムであり、過去にも旅順攻略の第三軍では、乃木司令官と伊地知参謀長のコンビは完全に失敗し、あまたの命が無為に失われていたのですが、戦後の乃木将軍の神格化などにより戦訓たりえませんでした。

 ミッドウェイ海戦の戦術的な直接の敗因については「兵装転換」、「利根機故障」、「第一次攻撃の失敗」「損害を恐れるあまりの不徹底」など諸説ありますが、いずれも航空戦の原則にこだわりすぎた感があります。
 これが南雲中将に起因すものなのか、源田中佐に起因するものなのかは今となっては不明ですが、源田中佐に起因していれば、参謀が実権を握るというシステムの破綻、南雲中将に起因していても、一参謀の中佐では中将の長官を止めることは不可能ということで、日本式システムの限界と見ることができ、第一航空艦隊の壊滅の原因は「年功序列」ではなく、逆に柔軟に過ぎた「大抜擢」だったのではないでしょうか。

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