日本軍不名誉戦記 



 賊に代わりて不義を成す 極悪非道の我が兵は〜(「日本陸軍」の替え歌・作者未詳)

 ウチは日本軍を援護するサイトではありませんが、性質上、どうしても軍隊の陽の部分ばかり書くことになります。そこで、今回は趣き変えて日本軍不名誉戦記と称し、騒擾や市民への攻撃を行なった事件などについて書きたいと思います。
 日本軍の悪行や不名誉な行為といえば大陸や南洋での無茶な行為がありますが、私としては南京虐殺より豊橋駅襲撃事件の方が、満州某重大事件より竹橋事件の方がより大きな不名誉であると思っています。もちろん、「日本の要人1名の命の方が300人だか30万人だかの中国の市民の命より重要」なんていう意味ではなく、日本軍隊は日本の国益を守る為に存在していたのであり、政府高官を殺害したり、日本の財産である駅を襲ったり、駅員や警官を害する行為は軍の存在意義そのものに関する行為であると思われるからです。
 よって今回は専ら日本本土における騒擾や争闘、上官殺害と治安出動について取り上げることにしました。なお、大戦末期に沖縄でかなりエゲツナイ事をやっているようですが、戦闘中の事件という事で今回は除き、また日本という点では台湾や朝鮮での無道行為は含まれるべきなんでしょうが、資料不足により今回は除くことにしました。

◆巡査屯所襲撃事件他(VS警察官)
 明治7年1月18日、東京府本郷で警察官が乱酔して路上で放尿をしていた東京鎮台の兵士を注意したところ、逆にくってかかりもみ合いになり、双方とも増援を呼んだために警官30名と兵士200名が白昼の路上で乱闘に及ぶという不祥事となりました。
 この事件の頃から兵士と警官の争闘が目に余るようになり、6月14日には愛宕下町で乱酔していた兵士を巡査屯所(今の交番か?)に拘引したところ、兵士数百名(当時の新聞報道による)の東京鎮台の兵士が巡査屯所を襲撃して巡査数名を負傷させ、翌年3月には囮が警官を誘い出し、伏兵していた兵士数百名(当時の新聞報道)がこれを殲滅するという、とんでもない事件を起こしています。

◆竹橋事件(騒擾/上官殺害)
 明治11年8月23日、給与の減額と西南戦争の論功行賞の遅れから不満が高まっていた近衛砲兵隊の兵卒が隊伍を組んで天皇に直訴し、参内するであろう大隈重信、西郷従道、伊藤博文ら重臣の殺害を謀った事件で、宮中警護にあたる筈の近衛兵が皇居の直近で起こした騒擾は新政府に大きな衝撃を与えました。
 近衛砲兵は大隊長宇都宮少佐、週番士官深沢大尉、坂本少尉を殺害、鎮圧に駆け付けた近衛歩兵と戦闘に突入して1名を戦死させ、また砲兵の一部は大隈重信邸を銃撃し皇居に迫るなどむちゃくちゃな騒ぎとなりました。
 後日、騒擾に加わった近衛砲兵および他隊兵のうち、騒擾中に死亡した6名と自決した1名を除く263名の裁判が行なわれ、53名が死刑、210名が流刑・徒刑などに処されました。また、暴動鎮圧に適当な処置をとらなかったり、暴動を避けて隠れていた近衛砲兵の士官7名と下士官30余名が奪官や閉門などの処罰をうけました。

◆松島遊郭「市街戦」(VS警察官)
 明治18年、大阪の松島遊郭で起きた歩兵第8連隊の兵士と巡査の喧嘩が応援につぐ応援でどんどん膨れ上がり、最終的に兵士1400名、警官600名が参加した、乱闘を通り越して戦闘に近いものまでに発展し、死者2名、負傷者約60名を出す大不祥事となりました。

◆豊橋駅襲撃事件(VS駅員)
 明治22年、歩兵第18連隊の兵士約20名が豊橋駅を襲撃し、駅長や助役の官舎、駅長室などを破壊し居合せた助役に重傷を負わせ、駅員数名を負傷させました。
 事件の発端は駅夫と兵士の喧嘩で、駅長の処置も穏健でなかった事から兵士側が復讐に出たというもので、この事件で豊橋駅の電信機が破壊され、鉄道も約1時間不通となる損害が出ました。
 流石に鉄道の運航を妨害し、電信機を破壊するなどの事件を部内で処理する訳にもいかず、第三師団軍法会議が開催され、4名が重禁錮1年、12名が重禁錮6月に処せられました。

◆足尾銅山争議(VS労働者)
 明治40年、足尾銅山で労働争議に端を発する暴動が発生し鉱業所長に重傷を負わせ160戸を焼失させるなど事態は深刻化しました。
 そこで政府は軍隊の派遣を決意、歩兵第15連隊から三個中隊が派遣されて全山に戒厳を施き、暴動を鎮圧しました。
 政府の決定のよる正規の出動で、しかも衝突は発生せず1人の犠牲者も出てない不名誉というよりは名誉の記録ですが、日本軍隊が日本国民(当時は臣民)に公然と銃を向けた最初の事件としてとりあげました。

◆米騒動(VS市民)
 大正7年、第1次世界大戦による物価高騰と米投機の流行、アメリカの外米買占めなど様様な要因が重なり米価が高騰し富山県で発生した暴動は忽ち日本全国に飛び火、警察力の手に負えなくなり各地で軍が出動しました。軍の出動は約50件でしたが、ここでは特に特記すべき事件のみ挙げます。
 8月10日、京都で暴動が発生、警察の手には負えないと判断した京都府知事は第16師団に救援を要請、騎兵第20連隊と歩兵第38連隊から100名が出動、警官隊と合同して暴動の鎮圧を行ない市民数名を負傷させ、日本軍隊が市民に(公然と)実力を行使した最初の事件となりました。
 8月12日、神戸で暴動が発生。兵庫県知事は第10師団に救援を要請、師団は市民に対する出動を拒否したものの、事態が悪化した為に400名が出動、暴動鎮圧にあたり市民5名を銃剣で刺殺しました。日本軍隊の出動で市民の犠牲者が出た最初の事件でした。
 8月13日、呉で暴動が発生。広島県知事は海軍に救援を要請し呉鎮守府から250名の陸戦隊が出動、市民と衝突し数名を負傷させました。海軍部隊の最初の出動となった事件です。
 8月18日、宇部の沖の山炭坑で発生していた労働争議は米騒動の暴動と合併し1万人を超える大暴動となり山口県知事は歩兵第42連隊に救援を要請、5個中隊が出動し暴動鎮圧にかかりましたが、暴徒の一部が火薬工場のある厚西村に迫った為、ついに軍は実弾を使用、死者12名を出し米騒動関連の軍出動で最も市民の犠牲の大きい事件となりました。

◆関東大震災と大杉栄暗殺事件(VS市民)
 大正12年9月1日、関東地方を激震が襲い約10万人が死亡する大参事が発生しました。
 政府は直ちに戒厳令を施き治安維持に努めましたが、人心の狼狽は激しく、朝鮮人や社会主義者が暴動を起こす等の流言が飛び交い、官憲までそれにつられる形で混乱し、社会主義者や朝鮮人が次々と検挙され、社会主義者・平沢計七ら14名が軍により殺害されるなど混乱を極めました。
 また、憲兵隊の一部で震災直後の混乱に乗じて社会主義者の大物を除く陰謀が立てられ、9月16日、無政府主義者の巨頭・大杉栄がその妻・野枝、妹の長男・宗一と共に拘束され、憲兵司令部内で麹町憲兵分隊長・甘粕大尉およびその部下に殺害されました。
 甘粕大尉は3名の殺害を隠匿するつもりでしたが、大杉は警察も要注意人物としてマークしていた為、憲兵隊が大杉を拘束した事が内務省に漏れ、宗一が幼少(7歳)で、しかも米国籍であった事などから問題となり、事件が発覚しました。
 この事件は甘粕大尉の上官の東京憲兵隊長・小山大佐や憲兵司令官・小泉少将が関与していたという説もありますが、甘粕大尉があくまで独断であると主張した為、真相は現在も謎となっています。
 なお、甘粕大尉は軍法会議で懲役10年の判決を受けますが3年後には恩赦で出獄、満州に渡り満州政界の黒幕となります。
 大杉事件は偶然にも公然化し、関係者が処罰されましたが、闇に葬られた憲兵・治安関係の陰謀はどのぐらいあるのか、想像もつきません。

◆桜会事件(騒擾未遂)
 昭和5年9月、橋本中佐ら国家改造をもくろむ陸軍の青年将校約20名が中心となり大川周明ら右翼思想家らと合同して「本会は国家改造をもって終局の目的とし、これがため要すれば武力を行使するも辞せず」を目的に掲げる秘密結社的組織「桜会」を設立します。
 昭和6年3月、大川周明らが騒擾を起こし、出動した軍隊が戒厳を施き若槻内閣を打倒し宇垣大将を担ぎ上げて軍事政権樹立を図るクーデターを計画しますが計画が漏れて失敗、ところが事件は不問に付され高橋中佐らが処分される事はありませんでした。
 続いて10月、こんどは荒木中将を担ぎ上げるクーデターを計画。この計画には参謀本部第二部長・建川少将ら高官や海軍の青年将校、北一輝など民間右翼も加えた大規模なものでしたが、担ぎ上げようとした、当の荒木中将の強固な反対により頓挫します。
 この事件でも首謀者の高橋中佐で謹慎20日と極めて軽い処分しか行なわれず、後の五・一五事件やニ・ニ六事件の原因のひとつとなったといわれています。

◆五・一五事件(騒擾)
 「桜会」の失敗後、こんどは海軍の青年将校が中心となり、陸軍の士官候補生および同調した一部の民間人が国家改造を目的に騒擾を起こし、首相官邸を襲撃して犬養首相を殺害した他、警視庁や政友会本部や日本銀行、東京周辺の変電所などの制圧を図った事件です。
 騒擾者達は大川周明ら国家主義者の影響を強くうけた革命派で、いわゆる「昭和維新」を成さんと暴挙に出たものですが、計画性に乏しく、自分たちが魁になって騒擾を起こせばあとは大川らが何とかしてくれるだろう的な無責任なものでした。
 事件後、市内の警護に第一、第二旅団が出動するなど大騒ぎになりましたが、犬養首相が殺害された他は大きな被害はなく、騒擾者も憲兵隊に自首した為に事態は拡大することなく終息しました。
 軍法会議では古賀中尉、三上中尉、黒岩少尉ら中心的人物に反乱罪で死刑が求刑されるなど当初は厳罰で臨む方針が取られましたが、青年将校達の勢いに押される形で次第にトーンダウンしてゆき、結局、古賀中尉と三上中尉に禁錮15年、黒岩少尉が禁錮13年、他に反乱罪に問われた海軍将校3名に10年の禁錮(求刑無期禁錮)、反乱予備罪に問われた6名に執行猶予付き禁錮(求刑禁錮3年および6年)、陸軍士官候補生11名に禁錮4年(求刑禁錮8年)という極めて軽い処分となり、後にニ・ニ六事件が発生した原因のひとつとなったとも言われています。

◆永田軍務局長殺害事件(上官殺害)
 昭和10年8月12日、東京の陸軍省内で軍務局長・永田少将が台湾歩兵第一連隊(未着任)の相沢中佐に軍刀で斬り付けられて死亡した事件です。
 当時は昭和維新を目指す「皇道派」と現体制の元で組織強化を図る「統制派」が対立していましたが、統制派系の林大将が陸軍大臣となった事から統制派が若干優勢となり、永田軍務局長の元で真崎大将や秦中将といった皇道派要人を軍の要路から追い出しにかかっている最中で、これに憤慨した相沢中佐が凶行に及んだというものです。
 桜会、五・一五事件や後のニ・ニ六事件と同系の事件ですが、大きく異なるのは青年将校ではなく、分別盛りの中佐が白昼堂々と上級者を殺害した点にあり、軍部に対する政治の毒の浸透の深さを物語るものでした。
 なお、相沢中佐の軍法会議は、皇道派の引き伸ばし戦術により遅々として進まず、翌年まで持ち越されましたが、ニ・ニ六事件により皇道派が潰滅、後ろ盾を失った相沢中佐は死刑に処せられました。

◆ニ・ニ六事件(騒擾)
 昭和11年2月26日早朝、統制派により追い詰められつつあった皇道派の青年将校に率いられた近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦砲兵大7連隊を中心とした在京部隊が首相官邸や政府要人の官舎や私邸、新聞社などを襲撃し内大臣・斎藤海軍大将、教育総監・渡邉陸軍大将、大蔵大臣・高橋是清、松尾陸軍大佐(首相官邸に居合わせた為、岡田首相と間違えて殺害された)と警備の警官6名を殺害、侍従武官長・鈴木海軍大将らに重傷を負わせ永田町付近を占拠、世に言うニ・ニ六事件が発生しました。
 竹橋事件以来の軍反乱事件で帝都は混乱を極め、軍中央では反乱部隊を「決起部隊」と呼ぶなど皇道派を中心に支持する動きすらありましたが、天皇が怒りの意を示し、奉勅命令が出された事から次第に鎮圧に動き、呼称も「反乱部隊」と改めました。
 2月29日、戒厳司令官・香椎中将は武力鎮圧を命令しますが、同時に下士官兵に帰順を勧める工作を行なったところ、下士官兵のほとんど全員が帰順した為に反乱部隊は決起の失敗を悟り首謀者・中の、竹橋事件のような皇軍相撃つという事態には至らず、初期の襲撃以外での犠牲は、反乱軍包囲に出動した部隊で起きた事故(暖房による酸欠らしい)で6名の死者が出たことと、説得を試みた軍務局課員・片倉少佐が撃たれて重傷を負った事、反乱部隊を出した責任を感じて歩兵第3連隊の天野少佐が自殺した事に留まりました。
 この事件で反乱の中心となったとされた将校13名、元将校2名(3名?)、民間人2名が死刑、将校5名が無期禁錮、将校1名、下士官兵47名、民間人6名が有期禁錮、間接的に反乱に関与したとして将校13名、民間人12名が有期禁錮に処されました。

◆八・一五事件(騒擾/上官殺害)
 昭和20年8月14日、終戦の大詔が発せられ、陸海軍は忽ち大混乱に陥りました。
 大本営参謀の井田中佐、椎崎少佐、畑中少佐らは近衛師団を決起させ、天皇を擁して徹底抗戦を行なうべく、近衛師団長・森中将の説得を試みますが、説得に失敗し同席していた第二総軍参謀の白石中佐もろとも殺害、決起に賛成の近衛師団の参謀と共にかねて用意していたニセ近衛師団命令を発し玉音放送の録音盤奪取と宮城の制圧に乗り出しました。
 しかし、東部軍司令官田中大将の果断な行動と東部軍参謀長高島少将の的確な処置により事態は鎮圧に向かい、同調する予定であった陸軍航空学校も憲兵隊の迅速な処置により不発におわりました。
 この他、終戦に反対する決起としては陸軍航空通信学校の将校下士官が東京に進出して不穏な動きを見せたり、海軍厚木航空隊が決起するなど関東地方を中心に多数の騒擾が発生しました。
 また、終戦に反対する決起ではありませんが、第5航空艦隊司令長官の宇垣中将が終戦の大詔を無視して自ら同乗した特攻隊を沖縄に突入させています。


 なんだか、資料の関係から、陸軍の不祥事が中心になってしった感がありますが、海軍については最大の疑獄事件である「シーメンス事件」について、そのうち別章をたててやりますのでご容赦ください。



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