関東大震災



 大正12年9月1日、関東地方をマグニチュード8の地震が襲い約10万人の死亡者が出る大惨事となりました。
 一般に、在泊中に津波にでも遭わない限り船舶は地震の影響を受けにくいのですが建造中となれば話は別。船渠や船台上でひっくり返るとどうしようもありません。
 また、関東地方の大規模な造船所は東京から横須賀にかけての地帯に分布していた為、地震の直撃をうける形で大きな損害を被りました。

 今回は地震の被害について、造船所別にみていきたいとおもいます。

横須賀海軍工廠

 横須賀の横須賀海軍工廠は海軍直営の造船所で大型艦のリーディングヤードでしたが、八八艦隊計画や軍縮条約の関係で民間の造船所に工事を優先的にまわしていた事もあり、比較的手すきの状態にありました。

 施設への被害としては庁舎の屋根が落ち、分析工場や製図工場、木工場、船体工場、警備詰所など多くの建物とクレーンが倒壊、さらに裏山が崩れてきていくつかの建物が埋没、岸壁も一部が破壊されました。火災も発生したのですが、こちらは的確な処置により20分で鎮火、大事には至りませんでした。
 大事に至ったのは船台の方で、軍縮条約により空母に改造中の巡洋戦艦<天城>の船台が壊れて船体が大破(資料によっては横倒とするものもある)、後に建造中止となり解体処分となりました。
 また、船渠には船底塗装の為に小型潜水艦<波号第十四潜水艦>と<波号第十五潜水艦>が入っていましたが、これらも支木が外れてドック内で横転しました。もっともこちらの方は比較的損害は軽微だったようで、両艦とも復帰しています。

横浜船渠

 字の如く、横浜の造船所、今はみなとみらいになっているあたりです。系列的に三菱に近く大正期の造船不況も日本郵船のバックアップを受けて堅調を維持し、海軍の民間造船所活用の一環として発注された軽巡洋艦<那珂>の受命に成功するなど順風の中にいましたが、それゆえに地震の損害は大きかったようです。

 建物の倒壊は全壊4棟で比較的軽い方で、発生した火災もすぐに鎮火したのですが、同夜、桜木町方面と橘町方面の両方から火災が延焼、大火災を起こしてしまい設備の大半を失ってしまいます。
 また、建造中の<那珂>は盤木が焼失した為に倒壊、工事は進水目前まで進捗していたのですが修理不可能と判定され建造中止・解体処分となりました。(後に<川内>の図面を元に設計からやり直して再起工しています)

浦賀船渠

 浦賀湾に望む伝統ある造船所で現在は住友重機械工業株式会社追浜造船所浦賀工場となっています。
 艦艇では駆逐艦の建造を得意としていましたが、震災時には民間造船所活用方針により巡洋艦の建造も手がけていました。

 地震の被害をモロに受けた地域であった為、多くの施設が倒壊、火災も発生し工場は完全に壊滅しました。
 しかし、船の方は軽巡洋艦<阿武隈>、駆逐艦<早苗><早蕨>は進水済みの為に損害なし、青函連絡船の車両渡船<翔鳳丸><飛鸞丸>も大損害を免れるという幸運に恵まれました。特に早蕨に至っては、進水は大正12年9月1日午前8時と地震の僅か4時間前、まさに間一髪の出来事でした。
 もっとも、工場が全壊した為、以後の工事の進捗は大幅に遅れ、<阿武隈>や連絡船の竣工に大きな影響を及ぼしました。

浅野造船所

 こちらも横浜の造船所で鶴見地区にありました。現在は日本鋼管の鶴見事業所となっています。
 あまり主要艦艇建造とは縁の無い造船所ですが、航空母艦<鳳翔>の船体部分の建造を請け負うなど、地力はあったようです。なお、<鳳翔>は11年末に進水を済まて海軍に引き渡した為、地震の被害は被っていません。

 鶴見地区は地盤が堅固な為か比較的被害が少なく、また火災の延焼も免れるという幸運に恵まれ重大な被害を被ることはりませんでした。
 ただし、浅野の幸運は神から授かったものだけではありませんでした。建造中の大型貨物船<墨洋丸>(8450GT)と<寿栄丸>(8000GT)は支木が外れ、盤木が歪み、極めて危険な状態となりましたが、直ちに編成された「決死隊」が不安定な船体の下に潜り、盤木を修復して事無きを得るなど、人事を尽くす姿勢が光りました。

 このほか、東京の石川島や深川などにあった各社の工場も大火災の延焼をうけ、東京石川島造船所の深川分工場にいたっては再建の目処が立たず廃止となるなど多くの損害を被っています。


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