麦と水兵



 日本軍の兵食といえば米と麦を混ぜて炊いた麦飯でした。麦飯もちゃんと気を使って調理して、たまに食べる分には美味しいものなんですが、一般的にはご飯の量を増すための程度の低い「代用食」として扱われており、下士官兵出身者が今でも根に持っている事のある「下士官兵に対する不当な扱い」のひとつに挙げられ事さえありますが、麦飯支給についてはちゃんとした理由がありました。

海軍滅亡の危機

 明治11年の時点で海軍の総人員は4528名。うち脚気患者1485名、脚気による死者32名。基本的に軍隊は検査に合格した壮丁が集まる集団ですから、羅病率32%、死亡率0.7%などという数字は尋常のものではありません。

 明治15年7月、朝鮮半島で発生した騒乱(壬牛事件/京城事変)に対し、邦人の救助と朝鮮政府への示威を目的に<金剛>以下5隻の艦艇を派遣しました。当時、清帝国は朝鮮に宗主権を主張していた為、半島における日清の対立はにわかに先鋭化し、済物浦で日清の艦隊が緊張を孕んだまま対峙するという事態となりました。
 結局、日朝談判が成立したために日清開戦は回避されたのですが、この僅か1ヶ月余りの出動で各艦では乗員の半分〜1/3などという大量の脚気患者が出てしまい、ほぼ全ての艦が戦闘はもちろん艦の運航すら危ない状態に陥り、各艦の艦長は事態の秘匿に非常な苦心を払ったそうです。
 また、明治15年末より<龍驤>が行なったニュージーランド・南米方面への遠洋航海では10ヶ月間の航海で乗員371名のうち160名が脚気を発症、うち25名が死亡するという事態も発生しました。

 出動や遠洋航海の度に将兵がバタバタと脚気で倒れてゆき艦の運航すら危うくなるのでは戦闘も何もあったもんではなく、比喩表現といか抜きで、文字通り海軍は「滅亡の危機」に立たされていました。


脚気という病

 「脚気」。脚気衝心ともいい、ビタミンB1の不足による栄養失調の一種で足のむくみや浮腫が見られ、症状が進むと動悸、視力低下を起こし、ついには心臓麻痺を起し死に至ります。
 脚気に罹ると膝の反射が無くなるので、膝の下の方を木槌などで叩き反射が起きるかどうかを見るというのが手軽な診断方法です。かつては聴診器をあてたり、喉や瞳を調べたりするのと同じぐらい標準的な検査だったので、ある一定より年配の人は病院で膝を叩かれた記憶があると思います。

 ビタミンB1は麦などの穀物や豆類に多く含まれているので、多くの文化圏の一般的な食事では欠乏を起こすことはないのですが、米の場合は糠の方に含まれているので、豆類や肉類といった副食を殆ど食べずに精米した白米ばかりを食べているとビタミンB1が不足します。
 玄米や雑穀を食べていれば脚気には罹らないのですから、江戸時代までは白米を常食できるような富裕層に限って発生する「贅沢病」で歴代の将軍や天皇も脚気で倒れた例があります。
 ところが、江戸時代末期から明治にかけて農業技術と精米技術が進歩し、中間層や貧困層でも白米を常食とするようになった為に都市部を中心に大発生するようになり、明治初期の頃では死亡原因の上位にランクされる国民病となっていました。

 当時、ビタミンは発見されておらず、脚気の原因は不明で治療法についても諸説入り乱れた状態でしたが、ジギタリス等の投与といった対症療法の他、「麦や小豆を食べる」や「転地療法」などが経験則から一般に行われていました。栄養欠乏で転地療法が効くというのは変な話ですが、実際に「碓氷峠を越えたら医者に見放された患者でも治る」といわれたぐらい良く効いたそうです。どうやら田舎では白米が入手しにくいので、玄米や雑穀の混ざった食事が多くなるから、というのが理由のようです。

高木兼寛と兵食改定

 海軍が脚気騒ぎの渦中にあった明治13年、ひとりの留学生が帰国します。高木兼寛、薩摩藩の郷士(一説では大工)の子で戊辰戦争に医師として従軍、終戦後は英人アーノルド・ウイリアムに師事、海軍に進んだ後は海軍軍医の事実上の留学第一号として英国セント・トーマス医学校に学び、首席で卒業した海軍軍医の期待の星でした。
 医務局副長に就任した高木は、西洋では全く脚気が見られない事や日本船舶でも外国港に入港中は脚気が発生しない事から脚気と食物の関連に着目、研究の末に脚気の原因は食物中の「窒素分」の不足との結論に至り、戸塚医務局長や川村海軍卿の支援を受けて海軍兵食改定に乗りだします。

 最終的には兵食の洋食化(肉食・パン食)を目指したものですが、その第一歩として下士官兵の食糧の金銭支給を廃止し、現物支給に切りかえる事を主張し、明治17年1月15日、実施に移されました。この実現の為に彼は重臣工作や天皇への拝謁を行なったのですが、少々強引な手を使ったようで後に遺恨を残すことになったようですが、その成果を速やかに現れ、明治17年度の脚気羅病者は718名、うち死者8名と前年度に比べて半減という大成果をあげました。

 また、明治17年、巡洋艦<筑波>がハワイ=日本海方面に遠洋航海を行なう事になっていましたが、兵食改定の試験の為の好機として<龍驤>と同じコースに変更させ、念入りに作成した洋食中心の食糧表と充分な食糧を搭載した<筑波>は明治17年2月に最初の目的地ニュージーランドへ向けて出航しました。
 かつて<龍驤>が「病者多し、航海できず」と悲鳴のような電文を発したハワイから「病者1人も無し」の電文が届き、明治17年11月に品川に帰着。結果は乗員334名(事故死1名、病死1名)のうち脚気羅病15名、うち死者ゼロという素晴らしいもので、脚気に対して有力な一撃を与えた事を確信しました。

脚気撲滅

 脚気の半減に成功した高木は兵食の完全洋食化による脚気撲滅を目指して精力的に活動を行いましたが、2つの大きな障害にあたってしまいます。
 ひとつは予算、無理をして外国から艦艇を購入していた貧乏海軍にとって、食費が2倍とも3倍にも増加する洋食化はとうてい許容できないものでした。
 もうひとつは兵の嗜好、こちらも重大な問題で米と野菜を中心とした和食になれている兵達はパンと肉類を中心とする洋食を拒絶する者が相次ぎ、試験的に洋食を導入した艦では食事時になると艦の廻りに捨てられたおびただしい量のパンが浮くという事態になっていました。

 そこで、高木は苦肉の策としてパンと原料が同じ麦飯の採用を思いつきます。麦は米より栄養価が高く、兵達も食べなれており、しかも米より安価。
 白米になれている兵達から不満はでるでしょうが、脚気で動けなくなるよはマシという事で早速、海軍の兵食を麦飯としました。
 実はこの時期、後述のように陸軍の大阪鎮台でも脚気対策として麦飯の供給を開始しており、高木がこの事を知っていたかは今となっては判りません。もっとも、仮に高木が堀内の実験を知っていたとしても、まだ結果は出る前だったので彼の業績が損なわれる性質のものではありません。

 麦飯の結果は覿面に現れました。実のところ、高木も麦飯には自信がなかったようで、年度の中頃には「とりあえず麦飯にしたが、やっぱり洋食化を進めるべき」などという上申を行なったりしましたが、終わって見ると明治18年度の海軍における脚気による死者はゼロ。
 海軍創設以来、常に衛生部の頭痛の種だった脚気はこうして海軍から撲滅されてしまいました。

陸軍と脚気

 一方、陸軍でも大都市に駐屯する部隊を中心に脚気の被害がジリジリ増加、近衛連隊(東京)や歩兵第八連隊(大阪)では羅病率が30%を突破するなど次第に深刻な事態になりつつありました。
 陸軍衛生部門の上層部は学理を重視するドイツ式医学が主流であった事から、海軍のような統計的アプローチは採らず、「脚気伝染病説」に基づいて脚気菌の発見を目指した研究を行ない、当面の対策として兵営の環境改善や栄養改善、転地療法などを実施しました。
 しかし、大阪や東京など大都市の部隊では「この際、原因究明は置いておいて、何でも良いから対策を」という動きが出始めます。

 最初に統計的アプローチで脚気撲滅に立ちあがったとされるのは大阪陸軍病院長の堀内利国一等軍医正(後の軍医大佐に相当)。
 彼は栄養・環境とも劣悪な筈の囚人の脚気患者が極めて少ない事に着目、その原因を麦や小豆中心の食事にあると考え、明治17年から1年間、大阪鎮台の兵士に麦飯を供給した所、前年まで30%を超えていた羅病率が1.3%まで低下するという素晴らしい効果をあげました。
 大阪鎮台の成功を受けて近衛、名古屋、広島など各地の部隊も次々と麦飯を採用、明治22年頃までには中央部の見解とは裏腹に陸軍のほとんどの部隊で麦飯が採用され、陸軍からも脚気はほぼ駆逐されました。

論争

 しかし、脚気栄養失調説は、あくまで「異端」である海軍衛生部や陸軍の現場軍医によって実施された臨床的アプローチによって証明されたに過ぎず、学理を重視する陸軍衛生部の上層部や東大を中心とする医学会はこれに反発、長きに渡る脚気論争が開始されます。

 この論争で割をくったのが日清・日露戦争に出征した陸軍の兵士達でした。陸軍の食料は内地では各師団が独自に米麦混合で支給していたのですが、出征すると補給は中央から受け取る事になり、当然白米。
 その結果、内地では収まっていた脚気が戦場で大発生する事となり、日清戦争における陸軍の脚気患者は発症4万1千、死亡4千。特に被害の多かった台湾征討軍では発症率107%という誤植のような無茶苦茶な数字を出してしまいます。
 対する海軍は高木の後を継いだ実吉安純らの指導により白米を徹底的に排除、その結果は日清戦争で発症34名、死亡1名。
 陸軍と海軍では動員人数が違っていますし、環境も大きく違っています。(一般に海軍の方が遥かにいい環境で「戦争」する)その上、統計方法が違っていて海軍の方が「甘い」基準でカウントしていたようですが、それでもこの数字の隔絶は歴然であり、陸軍上層部も折れそうなものですが、日本人の悪い癖が発動してしまい白米説を認めようとはしませんでした。
 そして日露戦争。戦争の規模が大きくなり、動員人数も増えた結果、発症21万、死亡2万8千。旅順口で大量の戦死者を出しているので日清戦争のように「脚気死亡者の方が戦死者より遥かに多い」なんて事にはなりませんでしたが、尋常ならざる数字です。

 それでも医学会や陸軍衛生部の上層部は白米説を受け入れず、論争はフンクによりビタミンが発見されるまで延々と続けられる事になります。

脚気残照

 大正8年4月、高木は腎臓炎で他界。海軍から脚気を撲滅した功績により従2位・旭日大授章が追叙され、勅使をもって祭祀料が下賜され海軍や関係者による盛大な葬儀が催されました。
 彼の業績は日本の学会ではあまり認められる事はありませんでしたが、海外ではビタミン発見の先駆的事業として高く評価され南極の地名にもその名を残しており、また国内でも東京慈恵会医科大学(東京慈恵会病院や東京病院、その医学校や看護婦育成所)の学祖として、また朝日生命(帝国生命保険)の創業に携わったとしてその名が残されています。

 さて、陸海軍では脚気は駆逐されましたが、民間では遅く、明治末には鈴木梅太郎やフンクが「ビタミン」を発見、脚気の原因が特定できたにも関らず、脚気患者は減少に転じる事はありませんでした。
 これは、兵食の時と同じで嗜好と費用の両面から、食生活を変えるのは難しいという、学理とは別の難問で、日本における脚気がようやく「激減」したのは昭和15年。完全に泥沼化してしまった大陸での戦争遂行の為に制定された国家総動員法により精米が制限され、玄米食が普及した事が原因というのは皮肉という他ありません。
 その後、敗戦により精米制限は廃止されますが、既にビタミンB1の大量生産に成功していた為に安価にビタミン剤を供給できるようになっており、また食品にビタミンを強化(添加)したものが出まわるようになり、脚気患者は減少の一途を辿り、昭和50年代には完全に駆逐され、病院で木槌で膝を叩かれる事もなくなりました。


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