最初の日本船    



 日本人の先祖は一般にポリネシアやミクロネシアの方から沖縄・九州経由でやってきた南方系、北海道から東北地方を通ってやってきた北方系、大陸から朝鮮半島や東支那海を越えてやってきた大陸系の混血という事になっています。大昔は大陸と列島は地続きでしたから、その時に渡ってきた大陸系や北方系の人達はともかく、それ以後にきた人達や南方系の人達は船でやってきたのは間違い無いのですが、残念ながら記録には残っていません。

 記紀の上代を記録と呼んでいいのなら、記録に残っている最古の船は<鳥之石楠船>またの名を<天鳥船>でしょう。正しくは鳥之石楠船神で、古事記では「国譲り」の3度目の使者である建御雷神の伴神として派遣された船を司る神性とあり、名前の意味は「鳥のように速く進む石のように堅牢な楠で出来た船」。神性の名前ですが、船そのものであると解釈される事があります。
 同じく国譲りの説話には<熊野諸手船>もあります。建御雷神に国譲りを要求された大国主神が御子神・事代主命の意見を聞くために派遣した稲背脛を運んだ船で別名を<天鳩船>。こちらは神性や船名ではなく、船型のようで島根県の美保神社には諸手船といわれる船を使って神事も行なわれているそうです。
 しかし、船なのに、なんで鳥なんでしょうかね。魚だって鮎とか鮪といった速い魚は20ノット以上は出てる訳で当時としては充分だと思うのですが・・・実は古代日本には進歩した文明があって、本当に空を飛んでいた・・・って、そりゃ竹内文書だ(笑)

 そして、時代が下り、純然たる船名として最初に記録に登場するのが<枯野>。日本書紀によると応神帝5年(274年)10月に伊豆国に命じて建造した全長30m(50mとも)の巨船で、鳥のように速い船でした。
 古事記にも<枯野>が出てきますが、こちらはひとつ後の仁徳帝の御代に「その影、朝に淡路島に及び、夕に高安山(現在の信貴山とも。大阪と奈良の県境にある生駒山系の山)を越える」といわれた大木を切り倒して建造した同じく鳥のように速い船で朝夕に淡路島の泉の水を都まで運ぶのに使われました。
 応神帝31年8月に廃船となりましたが、帝は<枯野>を惜しみ、その功績を残す為に船材で塩を焼き各国に分配しました。
 このとき、残った木材で琴を製作したところ、たいへん美しい音色が遠くまで響いたと歌に詠われています。

加良怒袁 志本爾夜岐 斯賀阿麻理 許登爾都久理 賀岐比久夜  由良能斗能 斗那賀能伊久理爾 布禮多都 那豆能紀能 佐夜佐夜 

 現代語:枯野を焼いて塩を作った余りの木材で作った琴を掻き弾くと由良の瀬戸に沈む岩が共鳴し、海藻が靡くようなさやさやとした音が鳴ったよ

 その後、<枯野>の代船の建造が各国に命じられ500隻の船が集まり、武庫港に係留しましたが、新羅の使節の失火により焼失。新羅王はこれの賠償として造船技術者を贈ったと記録されています。

 これらの船は材木を刳りぬいて作る丸木舟か、丸木舟の部分を船底にし、板で舷側を継ぎ足した丸木舟の改良型、あるいは左右ニ材を組合せる縫い合わせ舟であったと言われており、日本にジャンク系の造船技術が伝播する世紀ごろまでは、この類の船で海を越えていたようです。
 なお、これらの船は前述の美保神社など一部に製法が残っていたり、遺跡などから出土することもあるようです。また、アイヌなどは比較的近代までこの手の様式の船を使っていましたし、ポリネシアなどでは現役だったりするので割と完全な形で復元されています。



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