本型は昭和12年実施の「優秀船舶建造助成施設」により政府および軍部の援助を受けた大阪商船(OSK)がアフリカ航路向けに建造した高速貨客船で<報国丸><愛国丸><護国丸>の3隻が建造された。(<護国丸>は起工時は<興国丸>と命名されていた)

 1番船の<報国丸>は昭和15年6月15日に竣工。7月2日〜12日まで、「完成披露航海」として大連へ航海した後、アフリカ航路に就役。7月17日(※)より第一回アフリカ航海を行なった。
 しかし、これが<報国丸>最後のアフリカ航海となり、その後は政府の指示により大連航路に移り(対日感情の悪化に加え、開戦時に優秀船が海外港に取り残される危険を回避する為)さらに、昭和16年、<報国丸>と新造の<愛国丸>は海軍に徴用された。

 徴用後の報国丸型は15センチ砲8門(後に軽巡用の14センチ砲に換装)と魚雷発射管4基、水上偵察機2基を備えた特設巡洋艦として、第24戦隊を編成し、まずフィジー・サモア方面に投入、続いてインド洋で通商破壊の任務についた。

 昭和17年11月に蘭タンカー<オンディナ>を拿捕しようとした<報国丸>が奇襲反撃を受けて沈没するまでに、蘭タンカー<ゼノタ>、米商船<セント・ヴィンセント>などを拿捕または撃沈する戦果を挙げている。

 <愛国丸><護国丸>はその後は主に輸送船として使用され、高速を活かして各地への輸送に活躍した。
 これらの輸送作戦で<護国丸>が2回ほど損傷を受けたのに対し、<愛国丸>は強運を発揮し健在で、昭和19年1月のトラックへの輸送任務でも僚船<靖国丸>が雷撃を受けたときも無事にトラックにたどり着いている。
 しかし、<愛国丸>の強運もここまでで、トラック出港を翌日に控えた2月16日、米軍による空襲(トラック大空襲)を受け、数発の直撃弾を受けた、さらに米軍機の体当たりを受けて轟沈した。
 残った<護国丸>はその後、ヒ73船団などに参加したが、台湾沖で被弾、修理の為に内地航行中の11月7日、古志岐島沖で米潜<バーブ>の雷撃を受けて沈没した。


報国丸型の戦い:女装艦隊 〜第24戦隊〜

 <報国丸><愛国丸>で編成された第24戦隊は開戦に先立ち、南太平洋に進出、フィジー沖で開戦を迎えた。
 通商破壊任務の特設巡洋艦であるから、一般商船に擬装するのは当然だが、この場合、外交問題や真珠湾攻撃の秘匿といった意味もあり、念入りの対策が行われ、女装訓練まで行われたらしい。


報国丸要目(新造時)

 名  称   報国丸型
 ネームシップ  報国丸
 建造時期  昭和15年6月15日〜昭和17年4月2日
 建 造 数 3隻
 総 ト ン  10438トン
 全  長   160.8m
 水 線 幅   20.2m
 吃  水   12.4m
 主  機   B&W型ディーゼル機関 2基
 推 進 軸 2軸
 主  缶   −−−
 出  力   1300馬力
 最高速力  21.2ノット
 巡航速力 17ノット
 燃料搭載量  
 乗  員   133名
 乗客定員 特等48名、特三等48名、三等304名 
 貨物容量 12000m3 

同型艦:
 報国丸、愛国丸、護国丸
※<報国丸>の第一回アフリカ航海の開始日 アフリカ航海の開始日は資料により17日と19日の両方がある。
 これは、大連航海の終点が神戸港で、続いて横浜まで移動し、その後、名古屋−大阪−神戸−門司を経由してアフリカに向かっている為であると思われる。
 アフリカ航海が「神戸発」と考えるなら17日、「横浜発」と考えて「神戸−横浜」を回送扱いにするなら19日となるのだが、配船表や出帆広告では「報国丸 東南アフリカ・南米行」の欄は「神戸発 17日午前10時」から始まっているので、17日説が正当であると思われる。