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志賀・宗谷訪問記

 この夏、私のうち、軍事マニアでもエンジニアでもない部分の衝動により「コミックマーケット」に行く為に東京旅行してきました。

 コミケ旅行はいつも九段下の九段会館に投宿。遺族会の運営だけあって、ロビーに太平洋玉砕マップが飾られている、なかなかなホテルです。
 宿泊料金は相場よりやや高い目ですが、東京駅まで地下鉄2駅と交通の便が良く、なにより靖国神社まで歩いて2分というのがお気に入りの理由。
 今年の夏コミは3日開催。私が用があるのは1日目と3日目なので2日目が空いたので、それを利用して、「現在も残る海軍艦艇」を訪問する事にしました。

 現存する海軍艦艇のうち、特攻艇とかを別にすると稲毛海岸の「志賀」、船の科学館の「宗谷」、横須賀の「三笠」ぐらい。今回は太平洋戦争参戦艦である「志賀」と「宗谷」を訪れました。


 まずは「志賀」。「志賀」は鵜来型(甲型)海防艦。鵜来型は護衛艦艇の不足が深刻化した昭和18年に、生産性の悪かった従来型(御蔵型)に変わり計画された、量産型航洋型の護衛艦艇で、18基の投射機と2条の投下条を持つ極めて強力な爆雷装備(日造桜島で建造された9隻は掃海型)を持ち、しかも所要建造期間は御蔵型の1/2という成功した戦時急造艦でした。

 「志賀」は昭和20年3月20日に佐世保工廠で竣工。船団護衛任務に就いた後に昭和20年11月30日に除籍。
 昭和20年12月1日より掃海艦、昭和21年11月1日より米軍連絡船として釜山−福岡航路に就役、昭和22年12月31日、指定解除。運輸省に移管。昭和25年12月31日より「志賀丸」と改称。中央気象台の定点観測船。
 昭和29年1月1日、海上保安庁に移管、海上保安大学校練習巡視船「こじま」と改称。
 昭和39年5月6日、解役。昭和40年8月31日より千葉市海洋公民館。
 平成9年秋、老朽化により解体予定。

 東京駅から快速で1時間強。家族連れで賑わう舞浜(東京ディズニーランド)のさらに先の稲毛海岸駅で下車。
 周囲は完全な住宅地で間違えてないか不安になりながら徒歩数分。ついに志賀とご対面。

海防艦「志賀」(前方)
 かつては海岸に係留されていたらしいが、埋め立てで海岸が移動し、住宅地の中の「池」に取り残された「志賀」はかなり間抜けな姿であるし、錆や汚れも目立ちます。
 また、海防艦「志賀」として保存・展示されている訳ではなく、千葉市海洋公民館として使用されており、百歩譲っても練習巡視船「こじま」な訳で当然ながら武装はダミーすら付いてないし、塗装は海軍の軍艦色ではなく海保の白色塗装です。
 しかし、戦時急造艦らしい直線的なスタイルは健在で、特に艦橋付近は丁型駆逐艦などにも通じる戦時急造艦独特の形式を保っており、往時を偲ばせます。
 また、従来の日本海軍艦艇のような、芸術品のような美しさはないものの、逆にシンプルな外見は「戦闘艦艇」である事を強く意識させ、気高さのようなものを感じました。
 激動の戦中・戦後を生き抜いた歴戦艦も今は住宅地の公園で静かに憩う・・・そう思うと間抜けな姿も絵になります。
 老朽化が著しく残念ながらこの秋には解体されてしまうそうです。



海防艦「志賀」(艦橋付近)  海防艦「志賀」(横)

 次いで「宗谷」に向かいました。

 稲毛海岸を後に東京方面に逆戻り。途中、コミケの2日目も見るだけ見ておこうと有明ビッグサイトを経由した為、稲毛海岸−(JR)−新木場−(地下鉄)−有明−(ゆりかもめ)−船の科学館というルートで移動。
 
 ゆりかもめを降りると船の形をした建物(モデルはQ.E.2世号らしい)が見えます。これが船の科学館。
 
二式飛行艇
 科学館の正面にはアメリカから返還された二式飛行艇が展示されていました。
 二式飛行艇、別名を二式大艇。第二次世界大戦に投入された飛行艇のうち、もっとも大型かつ高速、水上性能も抜群という、日本航空界の到達点を示す名機で、日本海軍の同世代の四発の陸上機「深山」の最高速度が420km/hなのに対し二式飛行艇は470km/hを叩き出し、空戦でB−17を撃墜した冗談のような水上機でした。
 この歴史的な名機が返還され、公開されているのは非常に喜ばしい事ですが、屋外展示なのは頂けません。東京の酸性雨で痛んでしまいそうで、是非とも屋根を付けてやってほしいもんです。


軍艦「陸奥」主砲
 二式飛行艇を眺めた後、船の科学館の館内へ。
 船の歴史、現状、港湾などの展示がメイン。あまり多くはないが軍艦や護衛艦の展示もある楽しい博物館でした。
 そのまま、裏手に抜けると「宗谷」と元青函連絡船「羊蹄丸」が係留されているのだが、その手前に「大和」の模型と「陸奥」の40センチ砲がありました。

 「大和」の模型は映画の撮影に使ったものらしいが、屋外展示のせいなのか、機銃や構造物が一部破損しているのが気になりました。
 「陸奥」の40センチ砲は本物。昭和48年に引き揚げられた時のもので、靖国神社など他にも数ヶ所、「陸奥」の部品が展示されている所があります。
 ネームプレートに直した跡がありますが「戦艦陸奥」とでも書いてあったのを「軍艦陸奥」に直したのかな?


 いよいよ「宗谷」。元は商船ですが、特務艦(運送艦)としてソロモン戦にも参加した歴戦の艦です。もっとも、歴戦の艦だから保存・展示されているのではなく、後進である南極観測船だから保存・展示されているのですけどね。
宗谷(羊蹄丸・上甲板より撮影)
 「宗谷」は昭和11年、北満鉄道買収の代価としてソ連貨物船「ホロチャベツ」として起工、進水後、契約が破棄され辰南汽船貨物船「地領丸」として竣工。
 平凡な三島型・マイヤー船首の貨物船でしたが、ソ連向けであった為、耐氷構造(砕氷能力は12センチ)となっており、それがこの艦の運命を決したといっても過言ではないでしょう。
 昭和15年、ソ連との関係悪化に伴い北洋での行動力強化を図る海軍に買収され、特務艦籍に編入、運送艦「宗谷」となり、砕氷艦「大泊」とコンビを組み、北洋で漁業保護と測量任務に就きました。
 開戦後はラバウルに進出し測量と輸送任務に就き、終戦後は復員業務の後に解体が計画されていましたが、海上保安庁の灯台補給船に不足が生じた事から、灯台補給船となり、さらに昭和31年からは南極観測船として第一次から第六次の南極観測に従事。その後は昭和53年まで巡視船として活躍しました。

 「宗谷」は艦内を見学する事もできます。
 排水量で3800トン、駆逐艦よりは大きいものの、軽巡洋艦よりも小さな船ですが、商船なので船幅が広いのでかなり大きく感じられます。(その前に940トンの志賀を見てきたせいもあるかも)

 「宗谷」は何回も改装を受けているのですが、内装は竣工時からあまり触っていないそうで、確かに一部のネームプレート等のフォントは歴史を感じさせるものがありました。
 本来、北洋向けの船なので南極観測船として赤道を越えるのはかなりツライ事だったと船内の説明文に書かれていましたが、ラバウルで活動してた時はずっと赤道直下だった訳で、乗員の苦労は並み大抵の事ではなかっただろうと思います。

 「宗谷」見学後は水上バスで浜松町に向かい、そこから宿のある九段に戻りました。
 次の機会があれば「三笠」を見に行きたいと思います。