大正7年の八八艦隊計画の実施段階構想である八六艦隊計画による中型駆逐艦。

 峯風型や樅型で採られたシェルターデッキや上部構造物の上に備砲を搭載する方式は、たしかに波浪の影響を避け、荒天でも戦闘能力を維持できる利点があったが、1000トンに満たない二等駆逐艦では艦の重心が上がって不安定になるトップヘビーの傾向が顕著となり、樅型では高速旋回時に危険な状態に陥る事故が発生した為、船体のサイズを若干改定して対策としたが、依然として問題は残り、大事故に繋がってしまった。

 本型は23隻の建造が予定されていたが、ワシントン条約締結に伴う八八艦隊計画の破棄により8隻で打ち切られ、同時に従来の大型・中型並立建造計画も見直され、大型駆逐艦一本にしぼられた為、日本海軍最後の二等駆逐艦となった。(時折、混同される方が居られるが太平洋戦争末期の丁型は植物名は付いているが、峯風型より重い立派な一等駆逐艦)

 第一水雷戦隊の主力として一線で活躍、特型の登場で第一線から退いた後も小型・浅吃水を活かし大陸での警備任務で活躍、太平洋戦争にも、戦前に喪失した<早蕨>を除く全艦が参加している。


若竹型の戦い:消えた駆逐艦 〜第一四号駆逐艦〜

 若竹型は建造当初は偶数の数字艦名が付いていたが、何故か第一二号(夕顔)の次は第一六号(芙蓉)だったりする。第一四号はいずこ?
 日本海軍は「シ」を嫌い、明治期には艦名の「し」は「志」と表記した事もあったし、昭和期の空母<翔鶴>の甲板の識別符号は「シ」ではなく「ス」と書かれていたとう記録もある。
 しかし、若竹型には第四号(呉竹)はちゃんといるんだよなぁ・・


若竹型の戦い:幸運・不運 〜早蕨〜

 若竹型4番艦<早蕨>は大正12年9月1日に浦賀船渠で進水したが、直後に関東大震災が発生し、浦賀船渠も被害を被った。進水直前は艦が不安定な状態となる為、進水が遅れていたら大破していた事は、巡洋戦艦<天城>や軽巡洋艦<那珂>の例からも明らかであった。
 しかし、幸運な生まれの反動か、昭和7年12月5日、荒天の台湾沖を航行中の転覆、そのまま消息を断ち沈没の判定された。
 外洋を航行中の軍艦が遭難するのは、日清戦争直前にシンガポール沖で遭難した<畝傍>以来の大事故であるが、何故か注意が払われず、友鶴事件さらには第四艦隊事件と続く日本海軍の一連の悲劇の幕開けになってしまった。
 美保ヶ関事件で軽巡<神通>と衝突して沈没した樅型の<蕨>と名前が似ているのは、奇妙な一致ではある。



若竹型要目(新造時)

 名  称   若竹(第二駆逐艦/第二号駆逐艦)型
 ネームシップ  若竹(第二駆逐艦/第二号駆逐艦)
 建造時期  大正11年9月30日〜大正12年8月20日
 建 造 数 8隻 
 基準排水量  820トン
 全  長   88.4m
 水 線 幅   8.1m
 吃  水   2.5m
 主  機   艦本式オール・ギヤードタービン 2基※ 
 推 進 軸 2軸
 主  缶   ロ号艦本式水管缶3基(重油専燃) 
 出  力   21500馬力
  計画速力  35.5ノット
 航 続 力 14ノットで3000浬
 燃料搭載量  重油250トン
 乗  員   107名
 兵  装   12センチ45口径単装砲 3基
  6.5ミリ単装機銃 2基
  53センチ3連装魚雷発射管 2基
※主機について
<朝顔><早蕨>はパーソンズ式、<夕顔>はツェリー式を採用


若竹型の航跡

若竹(駆二) Wakatake
大正11年9月30日、川崎造船所にて第二駆逐艦として竣工、二等駆逐艦に類別。
大正13年4月24日、第二号駆逐艦に改称
昭和3年8月1日、若竹と改称
昭和19年3月30日、パラオ沖で米艦載機の攻撃をうけ沈没
昭和19年5月10日、除籍
太平洋戦争では門司、馬公、フィリピン方面の船団護衛に従事

呉竹(駆四) Kuretake
大正11年12月21日、川崎造船所にて第四駆逐艦として竣工、二等駆逐艦に類別。
大正13年4月24日、第四号駆逐艦に改称
昭和3年8月1日、呉竹と改称
昭和19年12月30日、バシー海峡で米潜<レザーバック>の雷撃をうけ沈没
昭和20年2月10日、除籍
太平洋戦争では台湾、フィリピン方面の船団護衛に従事

早苗(駆六) Sanae
大正12年11月5日、浦賀船渠にて第六駆逐艦として竣工、二等駆逐艦に類別。
大正13年4月24日、第六号駆逐艦に改称
昭和3年8月1日、早苗と改称
昭和18年11月18日、セレベス海で米潜<ブルーフィッシュ>の雷撃をうけ沈没
昭和19年1月5日、除籍
太平洋戦争では台湾、フィリピン方面の船団護衛に従事

早蕨(駆八) Sawarabi
大正13年7月24日、浦賀船渠にて第八号駆逐艦として竣工、二等駆逐艦に類別。
昭和3年8月1日、早苗と改称
昭和7年12月5日、台湾沖で転覆後、消息不明となり沈没と判定
昭和8年4月1日、除籍

朝顔(駆十) Asagao
大正12年5月10日、石川島にて第十駆逐艦として竣工、二等駆逐艦に類別。
大正13年4月24日、第十号駆逐艦に改称
昭和3年8月1日、朝顔と改称
昭和20年8月22日、下関沖で触雷着底
昭和20年11月30日、除籍、戦後解体
太平洋戦争では仏印、サンジャック、海南島方面の船団護衛に従事

夕顔(駆十二) Yugao
大正13年5月31日、石川島にて第十号駆逐艦として竣工、二等駆逐艦に類別。
昭和3年8月1日、夕顔と改称
昭和15年4月1日、哨戒艇に転籍。第46号哨戒艇と改称
昭和19年11月10日、石廊沖で米潜<グリーンリング>の雷撃をうけ沈没
昭和20年1月10日、除籍
太平洋戦争では主に船団護衛に従事

芙蓉(駆十六) Fuyo
大正12年3月16日、藤永田造船所にて第十六駆逐艦として竣工、二等駆逐艦に類別。
大正13年4月24日、第十六号駆逐艦に改称
昭和3年8月1日、芙蓉と改称
昭和18年12月20日、マニラ沖で米潜<パッファ>の雷撃をうけ沈没
昭和19年5月5日、除籍
太平洋戦争では門司、台湾、東シナ海方面の船団護衛に従事

刈萱(駆十八) Karukaya
大正12年8月20日、藤永田造船所にて第十八駆逐艦として竣工、二等駆逐艦に類別。
大正13年4月24日、第十八号駆逐艦に改称
昭和3年8月1日、刈萱と改称
昭和19年5月10日、バターン沖で米潜<コッド>の雷撃をうけ沈没
昭和19年7月10日、除籍
太平洋戦争では台湾、マニラ、シンガポール方面の船団護衛に従事