熾烈を極める海上護衛戦における艦艇の損害に真っ青になった海軍が太慌てで計画した戦時急造艦で、日本海軍の大型(旗艦用)海防艦の最終型となった。

 曲線を徹底的に減らし、煙突等も直線で構成、艦尾の形状も従来のクルーザースターンからトサンサムスターンに改め、ダブルカーヴェチャを減じる為に前部の舷側にナックルを入れるなど、大鉈を振るった結果、工数は占守型の1/3である3万工数まで減じ、平均建造期間を4.4カ月まで縮める事に成功した。

 本型の武装で特筆すべきは強力な爆雷兵装で18基の爆雷投射器と2基の投下条で、1投射25発という、対潜艦でも類を見ない圧倒的な戦力を持っていた。
 ただし、日本海軍はついに有効な対潜前方攻撃兵器を装備する事ができず、日本の生命線を守りきる事はできなかった。

 工数削減の為の簡略化と戦訓の取り入れは艦の内部にも及んでおりリノリウムや居住区における腰掛や食卓はもちろん、ハンモックまで廃止してしまい、乗員はゴザの上で毛布にくるまって眠るという、「常に戦闘配置」という凄い事になっている。
 あまりの簡略化に当時は「半年持たせるだけの艦」などという陰口を叩かれたが、<志賀>や<鵜来>は海上保安庁巡視船として戦後も長く活躍した。

 20隻が完成し、4隻が失われた。 本型は登場時は「乙改」と呼ばれていたが、後に「甲型」に統合されていたり、日立造船桜島造船所で建造された<日振>以下9隻の扱いが不思議だったりと、いろいろと混乱のある艦である。

鵜来型の戦い:最後の残照 〜志賀〜


 鵜来型の<志賀>は戦後、掃海艦を経て米軍の連絡船として使用、返還後は中央気象台の定点観測船<志賀丸>、さらには海上保安大学校の練習船<こじま>として昭和39年まで活躍した。

 解役後は千葉県稲毛で海洋公民館として利用され、現存する最後の艦艇として知られていたが、保存運動も空しく、平成10年、老朽化により解体されてしまい、海軍の残照は特務艦<宗谷>のみとなってしまった。



乙改型(鵜来型)要目(新造時)

 名  称   乙改型のちに甲型(鵜来型)
 ネームシップ  鵜来
 建造時期  昭和19年7月31日〜昭和20年3月24日
 建 造 数 20隻
 基準排水量  940トン
 全  長   78.77m
 水 線 幅   9.10m
 吃  水   3.06m
 主  機   艦本式22号X型ディーゼル2基
 推 進 軸 2軸
 主  缶   −−
 出  力   4200馬力
  計画速力  19.5ノット
 航 続 力 16ノットで5000浬
 燃料搭載量  重油120トン
 乗  員   150名
 兵  装   12.7センチ45口径単装高角砲 1基
 12.7センチ45口径単装高角砲 1基
 25ミリ連装機銃 2基
 爆雷120個(投射機18基、投下条2基) 

同型艦:
 鵜来、沖縄、奄美、粟国、新南、屋久、竹生、神津、保高、伊唐、生野、稲木、羽節、男鹿、金輪、宇久、高根、久賀、志賀、伊王