SD氷川丸氷川丸70年の航跡

日本郵船とシアトル航路
 明治維新直後の日本は長い鎖国の影響で海運が非常に貧弱で、外国航路はもとより、内航路もアメリカの太平洋郵船(パシフィックメイル)に席巻されるという状態でした。
 事態を憂慮した政府は明治8年、台湾征討に使用した商船13隻を三菱に払い下げ日本商船隊の整備を始めました。
 一方、三菱の独占に対抗する気運も生まれ、明治15年、半民半官の共同運輸が設立され、すさまじい競争が繰り広げられましたが、結局は共倒れを懸念した政府の仲裁で合併する事となり、明治18年、日本郵船が誕生しました。
 明治29年、グレートノーザン鉄道と提携した日本郵船はグレートノーザン鉄道の太平洋側のターミナル・シアトルと日本・アジアを結ぶシアトル航路を設立、東洋汽船のサンフランシスコ航路、大阪商船のタコマ航路と並び、日本海運を支える基幹航路として、<加賀丸>など6000総トンクラスの(当時としては)大型貨客船が配船され、小さな港町にすぎなかったシアトルは急速の発展し、当然、それに伴い貨客の取り扱い量も増大していきました。


優秀船建造
 第一次世界大戦後、米加両国は太平洋航路の整備を行ないアメリカはアドミラル・オリエンタルラインと太平洋郵船にプレジデント型(1万4千総トン)を5隻づつ10隻を投入、カナダもカナダ太平洋汽船にエンプレス型(2万総トン)を投入、日本側は小型(6千総トン)の横浜丸型や旧式化の目立つ<天祥丸>などしかなく、太平洋航路は大打撃をうけ、サンフランシスコ航路の東洋汽船が日本郵船に吸収合併される事態にまで陥りました。
 太平洋航路崩壊の危機に際し、日本郵船は政府の支援をうけ1万7千総トン・20ノットの高速客船3隻と1万2千総トン18ノットの高速貨客船3隻を建造し、サンフランシスコ航路とシアトル航路に投入、一気に巻き返しを計る事となりました。


氷川丸誕生
 この時のシアトル航路向けの1万2千総トン貨客船3隻の1番船が<氷川丸>です。
 シアトル航路は荒天で有名な航路であった為、ライバルのプレジデント型や同計画の1万7千総トンの浅間丸型とくらべ、ずんぐりとした船体で、舷窓も小さくて少なく、船体も普通は10ミリぐらいの部分を15ミリとするなど、とにかく丈夫に作られました。
 おもえば、この丈夫さが3度の触雷にも耐え、70年近く経った今日でもまだ浮いているのですから、何がどうなるか判らないものです。
 氷川丸型や浅間丸型が就役した当時、「優秀船」という言葉が流行語になり、日本の誇りとして扱われましたが、エンジンはデンマークのB&W社製のディーゼルエンジン、船内装飾もフランスのマーク・シモン商会に一任にドアの取っ手からカーテンに至るまで多数の外国製品を採用した為、「国産」というには若干の語弊が残ります。(運航はほとんど日本人だけの手で行なったし、後の改修なども外国の手は借りていませんが)

 そうして建造された6隻の「優秀船」はそれぞれ神社の名前が付けれる事となり、1万2千総トン級の1番船は大宮市の氷川神社の名をとり<氷川丸>と命名されました。
 初代船長は秋吉七郎氏。非常に厳しい人だったらしく、この人によって作られた<氷川丸>の厳しい規律と団結の伝統はのちのちまで残り、「軍艦氷川」と揶揄される程だったそうです。


各地で歓迎された処女航海
 昭和5年5月17日、内地でお広めを済ました<氷川丸>はいよいよ神戸を出港、太平洋を渡りシアトルに向かいました。
 昭和5年といえば、排日移民法が可決されるなど、いよいよ日米の雲行きが怪しくなってきた時期でしたが、「グレートノーザン鉄道を父に、日本郵船を母に」育ったシアトルには未だ反日の嵐は及んで居らず、5月27日に無事に到着した<氷川丸>はシアトル市民から大歓迎を受け、3万人近い見学者が船を訪れました。
 6月29日、無事横浜に到着。神戸を経由して7月6日に門司に入港しました。
 門司港は岸壁を整備したばかりで、接岸第1船が<氷川丸>という事で、ここでもブラスバンドが繰り出され、数千人の市民が集まりました。
 その後、東支那海を渡り上海に進み、大陸にそって南下し、7月12日、帰着港・香港に到着。63日1万浬に及ぶ処女航海は成功裏に終了しました。


太平洋の貴婦人
 本来なら「太平洋の女王」といいたい所ですが、同計画の1万7千トン型客船の浅間丸型や欧州航路から移ってきた<新田丸>が居るので、「貴婦人」あたりがしっくりくるところです。もっとも、後に<氷川丸>の見せた芯の強さは「貴婦人」というより「おかん」(大阪弁でお母さん、おばちゃん。上品な言い方ではない)に近いものがありますが・・・
 共にシアトル航路に就役した妹2隻(<平安丸><日枝丸>)とサンフランシスコ航路に就役した異母妹とも言うべき浅間丸型3隻(<浅間丸><龍田丸><秩父丸>)と共に太平洋航路の主役として大活躍しました。
 中でも<氷川丸>は「料理がウマい」と評判になり、他の船をキャンセルして<氷川丸>を選ぶ人も出たそうです。


栄光の日々
 そんな<氷川丸>の評判をききつけ、昭和7年5月発航の第11次航海では、日本から帰国する喜劇王チャップリンが乗船しました。
 喜劇王が乗船したという事は宣伝になるので、ライバルのカナダ太平洋汽船などと争奪戦を繰り広げ、ついに<氷川丸>に軍配があがりました。チャップリンは天ぷらが好物という事だったので日本郵船では司厨員をチャップリンが贔屓にしていた天ぷら屋に派遣して勉強させたそうです。
 昭和12年9月発航の第47次航海ではイギリス国王ジョージ7世の戴冠式に天皇陛下の名代として出席された秩父宮夫妻が御乗船になられました。日本の国際的な孤立の深まる中での皇族の乗船という事で、関係者一同はかなりピリピリしたようですが、結局は何事も起こらず平穏な航海となりました。
 また、<氷川丸>は貨客船なので、荷物も運びました。日本からは日本船の代名詞(シルクライナー)となっていた生糸や茶などを、アメリカからは機械製品や資源を運びました。
 かわったものでは、昭和5年発航海の第3次航海でロンドン条約(軍縮条約)の批准書を運んだりもしています。


戦争への坂道
 物理的な波浪はともかく、次第に太平洋の政治的な波浪も高くなっていきました。
 昭和6年9月の満州事変、昭和7年1月の上海事変などの影響で上海・香港向けの貨客が減少した為、神戸〜上海〜香港区間が廃止となりました。
 さらに昭和12年の盧溝橋事件に端を発する日華事変(日中戦争)が勃発。英米との対立もしだいに先鋭化していきました。
 昭和16年7月25日、アメリカは在米日本資産の凍結を宣言。日本商船も米国入港と同時に抑留される危険が発生し、26日、政府は航行中の全船に帰航を命じました。
 結局、この命令は28日に取り消されますが8月4日には再び全外航船に帰国命令が出ました。
 この命令で、シアトルに居た妹の<平安丸>は空船のまま急遽帰国、異母妹の<龍田丸>は準備不十分のまま航海した為、食中毒を発生、同じく<浅間丸>は日付変更線を10回も跨いだ為、航海記録が非常にややこしい事になるなど、各船で混乱が生じしましたが、<氷川丸>は7月20日に第73次航海を終了し、大阪湾に居た為、特に問題は生じず、第74次航海(8月9日発航予定)は絶望となったので、そのまま国内で待機となりました。


特設病院船<氷川丸>
 昭和16年10月23日、<氷川丸>は再びシアトルに向かいます。
 今回はシアトル航路の客船では無く、政府徴傭の引揚船として・・・日本郵船所有を示す二引のファンネルマークも消されての航海でした。
 <氷川丸>の姉妹達も陸海軍に徴傭されるか、船舶運営会の管理下におかれ、<氷川丸>らごく一部を除き、再び日本郵船に戻される事はありませんでした。
 368名の引揚邦人を無事に輸送した<氷川丸>は続いて海軍に徴傭され、特設病院船に改装される事になりました。
 昭和16年12月1日に着工、艤装員の中野薬剤少佐に「こんな豪華な船内を壊して病院船にするなんてもったいない」と言わせながらも昼夜兼行の突貫工事が行われ、12月21日に竣工しました。
 白一色で塗装され、船腹に緑のライン、船体の真ん中と煙突に赤十字が取り付けられ、イメージが一変したそうですが、後に「白鳥のような氷川丸」と言われたようで、それなりに似合っていたようです。
 仕切りを取り払った客室や船倉に畳みを敷き病室にし、一等客室・公室やツーリスト客室・公室は各執務室や士官室となり、火葬場や霊安室も設置されました。
 海軍側からは病院長・金井泉軍医大佐、第一部長(副長)陣内日出ニ軍医少佐、調剤科長・中野勇薬剤少佐、内務科長・東貞雄軍医少佐、外科科長・原貞男軍医少佐らを始め軍医科士官8名、看護科士官2名・下士官15名・兵50名、主計科士官1名・下士官6名・兵9名、兵科下士官6名、兵7名、機関科下士官1名・兵5名、傭人1名の合計110名が、郵船側からは船長・石田忠吉、一等運転士・奥平九一、機関長・宮尾三木、事務長・浅川出世らをはじめ泰任官(士官)待遇13名、判任官(下士官)待遇11名、傭員36名、傭人58名の合計105名が乗り込みました。


太平洋を東へ西へ
 昭和16年12月23日、第四艦隊に編入された特設病院船<氷川丸>はルオットを目指して横浜を出港します。
 ルオットでウェーク島攻略戦で負傷した患者を収容した後はクェゼリン、タロワを経て内地へ、さらに休む間もなくパラオ、ラバウル、内地に帰って今度はニューギニア、次はソロモン、トラックと休む間もなく太平洋を駆け巡りました。
 <氷川丸>の活躍は海軍報道班員・飯島冒一によりドキュメンタリー映画「海軍病院船」として内地に紹介され、人気を博しました。


悪意の海
 連合軍は戦時国際法を尊守し、「滅多に」病院船に手を出しませんでしたが、犠牲になった病院船が皆無というわけでもなく、また、航空機や潜水艦には赤十字のイルミネーションが見えますが、機雷には病院船だから爆発しないという機能は付いてないので、病院船といえど危険は常につきまとっていました。
 開戦劈頭に<はるぴん丸>が潜水艦により撃沈され、昭和18年11月には<ぶえのすあいれす丸>も爆撃により沈没。しかも、米軍は脱出した乗員・患者に機銃射撃を行ったという事です。
 さらに、昭和20年4月には病院船より安全が保証されているはずの交換船<阿波丸>が潜水艦の雷撃により沈没するという悲劇が生じています。
(「阿波丸事件」についてアメリカは過失を認め、戦争の結果に係わらず戦後の賠償を約束しましたが、戦後、日本側の「自発的」な請求権放棄により決着しました。)


奇跡の幸運船
 <氷川丸>が直接攻撃されたのは、昭和20年2月にコレヒドールで機銃掃射を受けた1度きりですが、触雷は3回も経験しています。
 1回目は昭和18年10月3日にスラバヤ港外で船尾に触雷。外板のリベットが緩んだぐらいでほとんど損傷はありませんでした。
 2回目は昭和19年7月15日、カロリン諸島のルットール水道で船首に2発触雷。船座が損傷し、1・2番船倉が浸水するも自力で脱出に成功しました。
 3回目は昭和20年2月14日、シンガポール港外で船尾に触雷。12番船倉が浸水しましたが、これまた無事に脱出しました。
 戦艦をも1撃で海の藻屑にしてしまう機雷に3度も触れながら、3度とも事無きを得、我が外航商船でほとんど唯一の生き残りとなった<氷川丸>は、まさに「幸運船」の名にふさわしいといえるでしょう。


白鳥の水面下
 病院船で物資を輸送するのはルール違反でしたが、このルールはとかく破られやすいものだったらしく、日本軍はかなり積極的に病院船で戦時禁制品を輸送していますし(<ぶえのすあいれす丸>などの病院船襲撃の理由にされている)、連合軍も開戦劈頭にオランダの病院船<オルテンプール>が戦闘員が輸送したのがバレて日本軍に捕獲されています。
 <氷川丸>は露骨な戦時物資輸送は行いませんでしたが、それでも健常者を病人に仕立てて送還するとか、重油を積めるだけつんで帰ってきて他の船や部隊に供給するといった事は行われてたようです。
 また、外地で砂糖などを搭載し、内地の部隊に売りさばいて病院費の足しにするというような事も行われていたようで、「純白の白鳥のような病院船」も水面下ではかなりいろいろとあったようです。


6人の犠牲者
 このように幸運な<氷川丸>でしたが、大戦を通じ、6人の戦死・戦病者が出ています。
 昭和16年12月25日、水夫見習・寺田暁井壱、横須賀からルオットにむけて航海中殉職。「戦死」や「戦病死」になっている記録もありますが、おそらく航海中の事故死だと思われます。
 昭和18年5月13日、一等運転士・奥平九一、横須賀入港中戦病死。
 昭和18年10月17日、一等機関士・池山義一、シンガポール入港中戦病死。
 昭和20年7月29日、機関庫手・木佐貫秀嗣、二等操機手・叶司、舞鶴公務上陸中、被爆・戦死。この2人は<氷川丸>の乗員で唯一、戦闘による戦死者で、舞鶴に上陸中に空襲に遭い戦死されました。


海軍病院船から引揚病院船へ
 昭和20年8月15日、日本は無条件降伏し、第二次世界大戦は終結しました。
 敗戦により、在外邦人628万人の「引揚」と在日外国人125万人の「送出」が行われることになり、10月には南太平洋艦隊日本船舶管理部(スカジャップ)が設立され、<氷川丸>もその管理下に入りました。
 <氷川丸>は大型で病院施設もある事から、特に緊急を要する地に送られる事となり、ミレ、ウェーキ、クサイ、ウエワク、ファロウ、ラバウル、ジャワ、ニューギニア、上海などから飢餓と疫病に苦しむ将兵を内地に送還しました。
 昭和21年8月15日付けで第二復員省(元海軍省)から船舶運営会に移籍され、今度は博多を基地に満州方面からの引揚邦人の輸送につくことになり、海軍の乗員は全員下船し、日本郵船と日赤の手で運航される事になりました。


白から黒へ
 昭和22年1月7日、病院が解散となり、<氷川丸>は貨客船として北海道航路に付くことになりました。
 昭和22年3月22日、横浜を出港し室蘭に向かい、石炭と食糧を満載し横浜を経由して大阪へ第1次航海を行い、以後、月1回ぐらいのペースで関西と北海道を連絡しました。
 日本最大の貨物船を投入するということは、北海道にはそれだけの物資があった訳で、当然ながら乗員・乗客ともに総闇屋になって物資を運んだため、<氷川丸>には「闇船」というあだ名がつけられたそうです。


商船への復帰
 昭和24年7月、<氷川丸>は北海道航路から外国不定期航路に移り、9月6日、ミャンマーのヤンゴンを目指して大阪を出港します。
 当時はまだ占領下。国旗(商船旗)の掲揚や郵船のファンネルマークも許されないさびしい姿での航海でした。
 この航海の帰路でピストンロッドの折損事故が発生しました。事故の原因は戦争中の酷使で疲れきっていたエンジンがとうとう音を上げた為で、11月3日より主機や捕機を完全に分解する大整備を実施し、12月9日、工事完了。
 一気に若返り、ロイド再入級(英国ロイドから安全を保証されること。日本海事協会なども同様の保証を行っていたが、ロイドのものが権威があった)も行い、「外航船」として名実ともに復帰を果たしました。
 さらに、昭和25年4月1日、戦前・戦中・戦後を通じ船舶の一元管理を行っていた船舶運営会が解散、当然、<氷川丸>も日本郵船に復帰しました。
 昭和16年10月に政府に徴傭されて以来の10年近い「氷川丸の戦争」はここに終わり、「商船」に復帰しました。


国連旗
 昭和25年8月15日、GHQは日本商船の米国渡航を不定期貨物船に限り許可、日本郵船は早速、<氷川丸>をポートランドに配船します。
 開戦時には新田丸型、三池丸型、あるぜんちな丸型、報国丸型など続々建造される新鋭船に1歩を譲る状態でしたが、戦争で姉妹達は文字通り「全滅」、ほとんど唯一の大型外航船として日本復興の期待を一身に背負って再び北太平洋に乗り出す事になったのです。
 9月15日、ポートランド着。戦後始めて米国を訪れた日本商船として大歓迎を受けました。
 未だ占領下で自国旗を揚げることを許されない<氷川丸>にムンク国連大使より国連旗が贈られました。昭和27年4月に再び国旗の掲揚が可能となるまで、<氷川丸>はこの旗を掲げて航行したそうです。


定期航路復帰
 昭和27年2月、欧州定期航路が解禁となり、<氷川丸>も欧州航路に配船され、定期貨客船に復帰。さらに28年7月にはなつかしいシアトル航路の定期貨客船に復帰しました。
 シアトル航路の主な乗客はフルブライト、スミスムント、AFSなどの留学生。希望に燃えて<氷川丸>でアメリカに渡ったこれらの留学生の多くはは今日、各界の中枢的地位についています。


やはり良家のお嬢様
 シアトル定期航路復帰の時点で<氷川丸>はすでに23歳。日本最大の外航客船とはいえ、すでに「老朽船」に分類される船齢でした。
 しかし、<氷川丸>の人気は上々。外国人船客も米加の20ノット近いピカピカの新造船ではなく、15ノットで息切れする改装に改装を重ねた<氷川丸>を選んで乗船してきました。
 人気の秘訣は食事とサービスでした。速度や設備では劣るものの、サービスでは乗客を荷物として輸送する戦後の貨客船は戦前の豪華客船で戦争中もコックとボーイをおろさず、サービスの炎を守ってきた<氷川丸>の敵ではありませんでした。
 氷川丸のきめの細かいサービスに感動した外国人船客が日本郵船にお礼に訪れるという事は多々あったそうです。
 育ちの良さは落ちぶれてもなかな抜けないように、9年間の「戦争」も<氷川丸>の育ちの良さを奪うことはできなかったということでしょうか。


ついに引退
 船齢が30歳を超える頃になると、さすがの<氷川丸>も寄る年波には勝てず、エンジン故障や船体の疲労が目立つようになってきます。しかも、シアトル航路は大赤字。
 日本郵船はついに<氷川丸>の引退、シアトル航路および全客船業務からの撤収を決意します。
 昭和35年8月27日横浜出港の復帰第60次航海が<氷川丸>は最後の航海になりました。
 寄港地のバンクーバーやシアトルでは送別のパーティが催され、数千人の市民がなじみ深い<氷川丸>との別れを惜しみ、日系人の中には泣き出す人まで出たそうです。
 10月3日、最終目的地の神戸港に入港。太平洋を238回横断し、2万5千人の乗客を運んだ<氷川丸>の旅は終わりました。


観光船へ
 横浜港に係船された<氷川丸>の処遇について、日本郵船では「老醜を晒させたくないので解体したい」として解体の方針でしたが、神奈川県や横浜市が誘致、市民の声をバックに郵船を説得する事に成功、山下公園桟橋で観光船として公開される事になりました。
 昭和36年2月「氷川丸観光株式会社」が発足、6月2日には海の教室兼ユースホステルに改装された<氷川丸>がオープンしました。
 昭和42年、マリンタワーと合併し、「氷川丸マリンタワー株式会社」となり、現在は博物館兼高級レストラン兼イベント会場となっています。


そして今日
 <氷川丸>はついに船齢70年を迎えます(平成12年)。
 船齢でいうなら、米海軍の<コンスティーション>など、<氷川丸>より老齢の船や<宗谷>など良い勝負の船はありますが、これらは保存を目的とした「博物館」など公共の施設であるのに対し(<コンスティーション>は形式上は現役の海軍艦艇ですが)、<氷川丸>はあくまで民間企業の所属で、自力で食い扶持を稼いでいる点が恐ろしいところです。
 平成10年2月には船内および桟橋の改装が実施され、さらに小奇麗になり、とても建造から70年の歳月が経過し、途方も無い距離を旅してきた老船とは思えない美しい姿を今も横浜港の水面に映しつづけています。



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