鉄道省 鉄 道 省

 鉄道省(後の国鉄→JR)の本業は鉄道運行ですが、その業務の一環として鉄道と鉄道、鉄道と港湾などを連絡する連絡船も運航しており、青函・宇高などにはかなりの船が配され、関釜航路や稚泊航路といった日では「国際航路」にあたる航路も運航していました。

連絡船事始

 我が国で最初の鉄道連絡船は琵琶湖の長浜=大津航路で明治15年5月1日より、政府の調整で誕生した合同運航会社「太湖汽船」の<第1太湖丸>(516GT)と<第2太湖丸>(496GT)の2隻の汽船が運航を開始しました。
 この航路は新政府の苦しい台所事情の産物で、なんとか官設鉄道の神戸=大津が完成し、長浜=金ヶ崎も完成の目処はたったものの、大津と長浜を結ぶ湖東線は内乱やら何やらで完成が先送りとなった為に、その代替路線として設定されたものです。
 したがって、この航路は明治22年に東海道本線が開通すると航路廃止となりました。

 代替手段としての連絡船は琵琶湖の他、利根川の栗橋=中田航路、吉野川の中原=徳島航路、大村湾の早岐=長与航路などあちこちで開設され、「本式」の連絡航路である関門航路も徳山=下関の開通を「待ちきれなかった」山陽鉄道が徳山=門司=赤間関(下関)の連絡航路を設定した事が起源とされています。
 変ったところでは阪鶴鉄道の福知山=由良で、工事が遅れているとか架橋困難とかではなく、「政府に鉄道敷設の申請を却下された為」に由良川を使ってむりから舞鶴に繋いだという事例もありました。

民設鉄道による連絡船

 当初、新政府は鉄道を自力で建設する方針でしたが、予算の関係から民設(私鉄)も許可する方針に転じ、明治30年代では民設路線の方が長くなっており、連絡船も民設鉄道が運航していました。

 民設鉄道会社で特に連絡船事業に注力していたのは山陽鉄道。現在はJR山陽本線となっている神戸と下関を結ぶ路線を運営していましたが、非常にアグレッシブな会社で陸路が設定できない場所では積極的に連絡航路を開設しました。
 山陽鉄道(と子会社の山陽汽船)は前述の関門航路に加え、岡山=高松、尾道=多度津、宮島=厳島など瀬戸内海で4航路を運航、さらに明治37年には日露戦争の勝利を確信してか、当時は「まだ」国際航路であった下関=釜山の連絡航路を計画、明治38年9月11日に開航しています。
 山陽鉄道の連絡航路は国際線あり盲腸線ありの異色の存在が多いのですが、特に異彩を放っていたのが岡山の京橋=三幡沖航路。全長13kmほどの河川航路ですが、鉄道駅から市街を抜けて沖合いの連絡船(岡山=高松航路)に連絡するという、連絡船の連絡船という不思議な航路でした。

 今日のJR福知山線を建設した阪鶴鉄道は前述のように認可の関係で由良川に航路を設定していましたが、明治37年、念願かなって舞鶴まで鉄道が伸張したのを期に日本海で連絡船業務を開始、明治40年に国有化されるまでに舞鶴=宮津、舞鶴=小浜、舞鶴=境航路を運航しました。
 こちらの連絡航路は山陽鉄道や日本鉄道の連絡航路とは異なっていて、鉄道と鉄道を連絡するのではなく、鉄道の通っていない港と鉄道の通っている港を連絡する「一方通行」の連絡航路となっていました。

 一方、、津軽海峡は明治25年までに東京=青森と小樽=室蘭の鉄路が完成し、明治26年より海路で青森と室蘭が接続されますが、運航は鉄道会社ではなく、純然たる船会社の日本郵船が行なっていました。
 しかし、鉄道会社と船会社では考え方のズレが表面化する事が多くなり、明治39年に日本鉄道は自営にむけて新造船の発注を行ないました。

伸びる鉄道

 2度の戦争や国力の充実を背景に鉄道の国有化論が強まり明治39年、帝国議会は「鉄道国有化」を議決、政府が建設した官設鉄道に加えて日本鉄道、関西鉄道、北海道炭鉱鉄道など17の主要民設鉄道会社を買収して国有鉄道とする事が決定、明治41年までに全ての路線の買収を完了しました。
 国有鉄道の誕生に伴い、逓信省の一支局であった鉄道作業局を帝国鉄道庁に改組、明治41年には南満州鉄道も監督下に収める鉄道院が設置されました。
 鉄道国有化に伴い山陽・阪鶴鉄道の連絡航路が引き継がれ、このうち「関門」(関森含む)、「関釜」「宇高」「宮島」航路が後に残る事となり、また日本鉄道が「青函」航路用にイギリスに発注していた2隻の新造契約も鉄道院に引き継がれ、「国鉄」による連絡船事業が開始されました。

 さらに日本の鉄道網は発展し、大正9年には国務大臣を長とする鉄道省に改組されました。このころまでにほぼ現在の主要幹線は開通していましたが、さらに幹線と幹線、幹線と地方との接続を主目的とした149路線10218キロの大計画を打ち上げ、鉄道網は飛躍的発展を遂げる事となり、それに併せて連絡船の輸送量も増加してゆきます。もっとも、この計画には無謀なものや、採算が怪しいものも多く、数十年後には「赤字ローカル線」として国鉄を崩壊させた大きな原因となるのですから、世の中どうなるかわからないものです。

貨車輸送への道

 青函や宇高の鉄道連絡船といえば、船倉にもレールが引いてあって貨車ごと船に乗り込む方式で知られていましたが、当初の連絡船はいちいち鉄道→ホーム(ヤード)→桟橋→連絡船と荷役作業を行なっていました。
 いちいち荷役を行なうのは時間も労力も大変なロスで、しかも荷物の破損やら紛失、積み間違いが多発して非常に非効率的で、特に本数の多い関門航路やその支航路である関森航路を運航する山陽鉄道の頭痛の種となっていました。

 明治44年、頭痛の種ごと航路を引き継いだ国鉄は現地の荷役業者・宮本組の提案による「車両航送」を実施します。これは艀までレールを引いて貨車を運び込み、汽船で引張って対岸までもっていく方法で、今まで4回必要だった荷役作業を全て省略できる画期的な方式であり、関門航路の輸送力は飛躍的に上昇しました。
 大正8年には増大する輸送量に対応すべく、艀ではなく、船そのものに輸送能力を持たせた自航式の車両渡船<第一関門丸><第二関門丸>(463GT)が完成します。これらは外輪式の蒸気船で、入出港が容易なように「両方とも船首」というかわった形状をしていました。
 大正11年には改良型の<第三関門丸><第四関門丸>(493GT)、大正15年にはさらに改良した<第五関門丸>(502GT)が就役、関門トンネルが開通する昭和17年まで本州と九州を結ぶ動脈として活躍しました。

 青函航路では大正3年より艀<車運丸>による車両航送が開始されます。流れは速いものの幅の短い関門海峡と異なり、難所として名高い津軽海峡での使用ですから、使用される艀も関森航路の2倍以上の大型の物が使用されました。
 ただ、当時は岸壁が未整備であった事と、北海道と本州では連結器の形式が異なっているという事情があり、一貫輸送ではなく、本州で建造した貨車を北海道に送る為に使用されたにとどまり、本州=北海道の一貫輸送が開始されるのは大正14年に本州側の連結器更新が行われてからの事で、この頃にはすでに我が国初の客載車両渡船<翔鳳丸>(3460GT)が就役しており、連結器の更新を待って一貫輸送が開始されました。

 宇高航路でも大正6年より艀による車両航送が開始されます。瀬戸内海は関門海峡や津軽海峡と異なり海が穏やかな為、1隻の蒸気船が3隻の艀を曳航し、荒天時や入出港時には左右と後に艀をくっつける「抱え込み方式」がとられていました。
 宇高航路における貨車渡船の登場は昭和4年の<第一宇高丸>(312GT)からですが、海面の状況が良い為か、艀航送も平行して続けられ、艀が全廃されるのは関門トンネル開通に伴い「失業」した関門丸が移籍してくる昭和18年まで続けられました。

 
新鋭船就航

 明治40年、日本鉄道から継承した<比羅夫丸>(1480GT)、<田村丸>(1479GT)がイギリスより到着。この2隻は我が国で初めて蒸気タービンを採用した最新式の船で、18ノットの快速により、それまで6時間かかっていた青森=函館を4時間まで短縮する事に成功しています。

 この頃から関釜・関門・青函航路の輸送量が急増、日本鉄道や山陽鉄道から継承した船舶では不足するようになった為に国鉄では民間所有の船舶の傭船で事態の切り抜けを図ります。
 このころ国鉄に傭船された船は後に名を残した銘船が多くあります。
 <さくら丸><うめが香丸>。日露戦争前に有事に備えて高性能商船をストックしておくロシア義勇艦隊に刺激をうけた帝国海事協会が建造した軍用転用を考慮して高性能船。高速ではありましたが商船としての性能はいま一つでした。<うめが香丸>は国鉄に傭船中の大正元年9月に門司港内で暴風の為に沈没。
 <博愛丸>。有事の際には病院船転用を考慮して日本赤十字社が建造、平時は日本郵船が上海航路でつかった事もある商船です。後に蟹工船に改造され北洋で活躍。小林多喜二のプロレタリア文学の名作「蟹工船」の舞台となった<博光丸>は本船がモデルです。
 <西京丸>。日本郵船が上海航路用に建造した商船。日清戦争では仮装巡洋艦として黄海海戦にも参加しました。本来、艦隊決戦に参加するような船ではなかったのですが、樺島軍令部総長が連合艦隊に無理矢理ついてくるのに使用しての参戦でした。(海軍の最高責任者が勝手に付いてきて、その上、戦闘中にエキサイトして商船で敵艦隊に突っ込むのですから、むちゃくちゃな時代でした)

 しかし、傭船による船隊の強化は景気の影響を受けやすく、安定輸送という点で大きな不安があった為、大正中頃から鉄道院では船隊の自有・自営の方針に転換、優秀船の建造にとりかかります。

 まず、日本の大陸への勢力伸張に伴い劇的に輸送量が増加しつつあった関釜航路に大正11年から<景福丸><徳寿丸><昌慶丸>(3619GT)を投入。この船はタービンを推進軸に直結するのではなく、減速ギアを介して接続する我が国で初めて「ギヤード・タービン」を採用しており、従来11時間30分かかった同航路を8時間(夜行便は9時間)に短縮しています。

 青函航路には前述の客載車両渡船<翔鳳丸>と姉妹船<飛鷺丸><津軽丸><松前丸>。これらの船は船倉にレールが引き込まれ、車両も運べるように作られていました。また、大正15年には旅客設備を持たない純車両渡船<第一青函丸>(2326GT)が就役します。しかし、この船は新方式を採用しすぎたのと建造中に関東大震災が発生しているせいかトラブルが多くタービンブレードが吹き飛ぶという事故を何回も起しています。

 宇高航路にも大正12年に561GTと小型ながらもギヤードタービンを装備した14ノットの快速船<山陽丸><南海丸>が登場します。これらの船は車両渡船ではありませんでしたが、手押し車によるRoRo荷役(?)が可能でした。

黄金時代

 大正12年、稚内と樺太の大泊を接続する稚泊航路が開設されます。開設当初は耐氷構造に改造された<壱岐丸>と<対馬丸>が夏季8時間、冬季9時間で運航していました。
 しかし、さすがに冬季の気象は厳しく欠航が目立ち、大正14年には<対馬丸>が吹雪の為に座礁・沈没する事故が起きたことから、本格的な砕氷貨客船を投入する事となり、昭和2年に本格的砕氷貨客船<亜庭丸>(3297GT)が、昭和6年には<宗谷丸>(3593GT)が就役、冬季も8時間で運航する事に成功します。
 ときどき間違えられるのですが、東京湾に係留保存されている南極観測船<宗谷>は海軍の運送艦であり、この<宗谷丸>とは別の船です。

 関釜航路では昭和4年に新船建造計画が持ち上がりますが、折からの不況により頓挫。しかし、昭和7年の満州国建国に伴ない輸送量が激増した事から、再び新造計画が進められ、昭和11年、<金剛丸><興安丸>(7081GT)が投入されます。
 この金剛丸型は、従来の連絡船の倍近い大型船で速力は日本商船最速の23ノット。客室はエアコン完備、各種公室や上等級船室は外航客船のような豪華な調度を整えるなど、それまでの連絡船とは一線を画する「豪華客船」でした。

 青函航路、宇高航路でも前述の車両渡船や客載車両渡船が次々と就役、連絡船は黄金時代を迎えました。しかし、それは本当に短い、うたかたの夢に過ぎなかったのです・・

戦争はじまる

 昭和12年、支那事変勃発。時局は次第に戦時色を強め、運航中止となる外航路が続出、「日本商船の夏」で艶を競った有力商船達も次々と軍に徴用されてゆきます。そして、昭和16年12月、ついに日米開戦。
 皮肉にも戦時下において連絡船は今までにない活況を呈します。戦争の序盤は船舶の徴用により内航船腹数が減少、貨物輸送が鉄道にシフトした事が原因でした。

 戦時下では計画造船が行なわれ、物資と労働力の有効活用の観点から、工事続航船を除き「戦時標準船」以外の建造が禁止されていましたが、増える輸送量に対応すべく、車両渡船「W型戦時標準船」(約2800GT)が制定、<第五青函丸>から<第十青函丸>の6隻が建造されて青函航路に投入されています。
 この<第五青函丸>は戦時下という事で造船所が工期短縮・資材節減にはりきり、工期半減、資材700トン減という大記録を打ち立てたのですが、軽くしすぎて船が浮きあがってしまい、荷役中に傾斜するわ鉄道桟橋に繋がらないわと大騒ぎになってしまったという、笑うに笑えない船出でした。
 戦時下のほかのほとんどの製品と同様、W型戦時標準船も後の船ほど材質・工事とも劣悪となってゆき、正確無比な連絡船運航も空襲や悪天候がなくても定時を守れない状態に陥ってゆくのでした。

 関釜航路も戦時下で異様な活況を呈し、昭和15年から新造貨物船<対馬丸><壱岐丸>(約3500GT)を投入、さらに昭和17年からは貨客船・天山丸型(約7900GT)が投入されます。
 天山丸型は<天山丸><崑崙丸>の2隻が建造され(3隻建造中止)ました。金剛丸の若干大型化した船で、昼行を重視して3等座席室を始め座席室を増強、302人の定員増加を行なっています。逼迫した情勢下での建造のため、内部の装飾は徹底的に簡略化され、冷房も廃止されるなど、金剛丸型の華やかさは失われましたが、船としては極めて優秀で、全力公試では両船とも日本商船の速度レコードを更新しています。(天山丸23.26ノット、崑崙丸23.45ノット)

 また、関釜航路は下関側の港湾施設が限界となってきた事から、昭和18年より新たに博多−釜山の博釜航路が開設されます。
 当初は関釜航路からの移籍船を使用していましたが、専用の車両渡船「H型戦時標準船」(約3100GT)も計画されています。ただ、内地と朝鮮半島ではレールのサイズが違っているのですが、車両渡船を建造してどうするつもりだったのでしょう?(実際に基準違いのレールを接続させている所もありますがレールを3本引いたり、車輪の軸に細工したりと相当めんどくさい事をやっており、戦時中に手を出す事ではないような気がします)

 関門方面では昭和17年、全長3.6キロの海底トンネルである関門トンネルが開通。関森航路は廃止となり車両渡船の関門丸シリーズは宇高航路に転換となります。
 しかし、門司市街と下関市街の連絡には関門トンネルは大回りになる為、関門航路の客船は存続し、国道海底トンネルが開通してその存在意義が失われる昭和39年まで、地域住民の足として活躍しました。
た。

連絡船壊滅

 戦局は悪化の一途を辿り、経済はガタガタになりますが、徴用による船腹不足は悪化こそすれ改善はしませんし、空襲や潜水艦の出没で近海・沿岸航路も危険となった為に、さらに輸送力の鉄道にシフトが進み、必然的に連絡船の重要度はましてゆきます。
 徴用こそ陸軍の支持で免れている連絡船ですが、空襲や潜水艦の脅威はいかんともなりません。昭和18年10月4日、関釜航路の<崑崙丸>が米潜水艦<ワーフー>の雷撃をうけて沈没します。当時、日本海は未だ安全な海域とされていた為、関係者は強い衝撃をうけたそうです。その後、<ワーフー>は大連湾などを荒らしまわりますが、ついには未帰還となりました。

 <ワーフー>の騒動以来、しばらくは平穏を保っていた連絡船航路ですが、昭和20年に入ると今度は空襲による被害が出始めます。
 昭和20年4月1日、<興安丸>が蓋井島沖で触雷・中破。5日には<壱岐丸>が六連島沖で触雷・大破。5月25日に<新羅丸>が関門海峡で触雷・沈没、27日には<金剛丸>が、6月12日には同航路の送迎船<下関丸>がいずれも博多港外で触雷・沈没します。被害のあまりの多さに6月20日、国鉄は関釜航路・博釜航路の運航を断念し残存船を敦賀・舞鶴・新潟と朝鮮を結ぶ航路に配転させます。

 7月14・15日には北海道・東北地方が大空襲をうけ、青函航路が潰滅します。
 午前の攻撃では函館港を出港したばかりの<第四青函丸>が攻撃を受けて沈没、続いて<第三青函丸>と<第十青函丸>が攻撃をうけて沈没、<松前丸>は七重浜に任意座礁したものの炎上・破壊となりました。一方、青森側では<第二青函丸>が青森港外で攻撃を受けますが、なんとかこれをふりきって青森に入港しました。
 午後も空襲は続き、空襲の合間を縫って出港を敢行した<津軽丸>も攻撃をうけて沈没、港湾への攻撃も行なわれ、函館港では工事中の<第七青函丸><第八青函丸>が大破、青森港では<第二青函丸><第六青函丸><翔鳳丸><飛鷺丸>が犠牲となりました。
 翌日も攻撃は続行され、ただ1隻、難を逃れ三厩錨地に退避していた<第一青函丸>も発見され、猛攻撃を受けて座礁・破壊となりました。この2日の攻撃で青函連絡船12隻は沈没8隻、座礁2隻、損傷2隻の損害を受け稼動船数はゼロ、航路は潰滅しました。

 青函航路は日本の動脈というべき極めて重要な航路ですから船舶運営会や海軍からの借用船で急場を凌ぐと共に、すでに潰滅して各地に避難していた関釜航路の船の転用を決定、さらに、たまたま函館に回航されていた稚泊航路の<亜庭丸>を青函航路に転用します。
 しかし、7月30日に<天山丸>が隠岐島沖で空襲を受けて沈没、同日、宮津湾で回航準備中の<昌慶丸>も空襲で着底、なんとか<壱岐丸>と<景福丸>は函館に向けて出港しますが、もはや日本沿岸は真っ当な航海のできる状態ではなく、空襲を避け、燃料と真水の欠乏に悩まされる苦難の航海の末に函館に到着したのは戦争が終結した8月20日と22日のことでした。
 一方、青函航路に就役した<亜庭丸>も8月10日の空襲の犠牲となり、航路回復は失敗に終わりました。

復興

 戦争で船舶の60%を失い、ほとんどの航路は麻痺し、関釜・博釜・稚泊航路は航路そのものを失いましたが、残った関門・青函・宇高・宮島の航路は復興させなければなりません。

 特に戦災の影響の少なかった北海道と本州の連結を回復させるのは焦眉の急となった為、LSTや機帆船まで含めた、まさに「ありったけ」の船舶の投入で急場を凌ぎ、戦時標準船の工事続行と戦没船の引揚げで輸送力を回復、さらには完全な新造の洞爺丸型4隻も加わり、昭和26年には戦前の水準を突破するに至りました。

 宇高航路は戦災こそ受けなかったものの戦争中の酷使により疲労が激しく、そこに復員ラッシュが起きたために輸送力が限界となった為に宇高航路としては初めての車載客船である紫雲丸型3隻を建造して輸送力の強化を行なう一方、新たな本四連絡航路である仁方=堀江航路が開設されました。

 流石に新設の仁方=堀江航路や山口県から移管された大島=小松航路、それに従来からの宮島航路には新造船を投入する余裕が無くなったのか、これらの航路では華々しい新造船はなく、「海岸に捨ててあった」陸海軍の魚雷運搬船やら運貨船やら強力曳船やらを使っての航路開設/復興でした。

悲劇と繁栄

 見事復興を果たした連絡船ですが、再興のシンボルともいえる新造船のネームシップである<洞爺丸><紫雲丸>両船をとんでもない不幸が襲います。
昭和29年9月26日、台風15号(後の洞爺丸台風)により<洞爺丸>が波浪により函館港外で座礁・転覆、乗員乗客1155人が犠牲になるという大事故が発生します。この日、函館港外では<第十一青函丸><北見丸><日高丸><十勝丸>も波浪の為に転覆し、合計1430名が犠牲となる、英商船<タイタニック>の氷山衝突事故に継ぐ世界第2位の大海難事故となりました。
 しかも、事件の衝撃の覚めやらぬ昭和30年5月11日、今度は宇高航路で<紫雲丸>が反航する連絡船<第3宇高丸>と衝突、乗員乗客168名が犠牲となる大事故が発生します。168名のうち108名が修学旅行中の生徒であった事がこの事故の悲劇性を高めました。

 元来、国鉄は船舶の安全運航には絶対の自信を持っており、戦時中を除けば連絡船が起した人身事故は昭和25年3月25日に宇高航路で<紫雲丸>と<鷲羽丸>が衝突し乗員7名が殉職した事故と同じく4月22日に青函航路で<第12青函丸>が穴間岬に衝突して乗員1名が殉職している程度だっただけに、洞爺丸事件と続いて発生した紫雲丸事件は関係者に大きな衝撃を与えました。

 国鉄は安全基準を見なおし、徹底した事故再発防止策を織り込んだ新造船・津軽丸型および讃岐丸型を就役、これらの船舶は後の航路廃止まで一線で活躍を続けた傑作船として知られています。
 また、大島航路や宮島航路でも小なりとはいえシュナイダープロペラなど新機軸を導入した新造船を投入、日本の高度成長に合わせるかのように連絡船は「黄金時代」を迎えます。

 しかし、貨物輸送の自動車への、旅客輸送の航空機へのシフトは着実に進行、鉄道のシェアを次第に奪ってゆきます。さらには連絡船の命運を断つ青函トンネルや本四架橋の計画が洞爺丸事件や紫雲丸事件を切っ掛けに具体化が進められていったのでした。

落日・・そして現在

 昭和39年、トンネル開通後も存続していた関門航路が合理化により廃止となりました。
 昭和51年、大島大橋の完成に伴い大島航路が廃止されます。終戦直後に山口県から継承した航路で当初は赤字航路でしたが国鉄の努力で黒字に転換させ、地域住民の足としての役割を果たしての勇退でした。
 昭和57年には仁堀航路が廃止となります。こちらは架橋やトンネル完成による航路廃止ではなく、赤字に堪えかねての撤退であり、赤字を理由にしての撤退は明治42年に阪鶴鉄道より継承した宮津航路を廃止して以来の事でした。
 昭和62年、国鉄はJR各社に分割・民営化されます。この時までに存続していた青函、宇高、宮島の3航路はそれぞれJR北海道、JR四国、JR西日本が継承しますが、翌年の昭和63年には瀬戸大橋と青函トンネルが開通、青函・宇高航路は廃止となりました。

 平成13年現在、残存する連絡船航路はJR西日本の宮島航路ただ1航路となりました。この航路は「鉄道に連絡しない連絡船」で1航路10分程度の短い航路ながら今日も活躍を続けています。
 また、連絡船ではありませんが、JR九州は平成3年より韓国の船会社と共同でジェットフォイルを運航、現在は<ジェビ2世><ビートル>の2隻が新しい「博釜航路」で活躍しています。

 *JR西日本(西日本旅客鉄道株式会社)
 *JR九州(九州旅客鉄道株式会社)