三 井 船 舶

 貿易会社の一部門ながら「MITSUI LINE」として名を馳せた「社外船の雄」、三井物産船舶部→三井船舶の概略史です。
三井物産創業

 明治9年3月、「広ク皇国物産ノ有余ヲ海外ヘ輸出シ内地需用物ノ物資ヲ輸入シ普ク宇内万邦ト交通セン」を目的と掲げた三井物産会社か創業しました。
 三井物産の創業当初の主要取扱品目は米穀でしたが、明治9年10月、三池炭の独占取扱を開始、大商社への飛躍の足がかりとしました。

三井物産船舶部誕生

 三井物産は当初は無資本会社として社有船を保有しておらず、全て傭船で賄っていましたが、折から発生した西南戦争と三菱の海運独占により船腹確保が困難となり、明治12年、英船主より<秀吉丸>(750トン)を購入、次いで<頼朝丸><熊坂丸>などを購入し船主としての業務を開始しました。
 日清戦争における船腹不足には<有朋丸>などを逐次購入、船列の拡大を図り、明治29年に航海奨励法が制定されると従来の石炭輸送から本格的な海運業務を開始、ニューキャッスル(豪州炭)、サイゴン(米)、ラングーン(米)、ジャワ(砂糖)、漢口(銑鉄)、営口(大豆)などの不定期航路に配船、明治36年4月には改組を行ない、後に「MITSUI LINE」として知られる三井物産船舶部が設立されました。

日露戦争と不況

 明治37年、日露戦争が勃発。ほとんど根こそぎといって良い船舶が徴用された為に船腹不足を生じ、大量の新船建造と用船が行われました。
 三井船舶も<万田山丸><長白山丸>など7隻の商船を購入し船列の拡大を図りましたが、戦争終結後は猛烈な海運不況に襲われる事になります。
 政府は海運不況対策として定期航路の保護を決定、不定期航路専門の三井船舶は大打撃を受けますが三池港整備に伴い<金華山丸>など4隻を建造、これら4隻の日本回航は日本人による日本/欧州不定期航海のはしりというべきものでした。
 不況の影響で航路の伸長を控えていた三井船舶でしたが、長期化する不況の打開策として明治末から攻勢に転じ、大正元年に桑港(木材)、ポートランド(小麦)、台湾バンクーバー(砂糖)、アントワープ(木材、石炭、鉄鉱石)、マカテヤ/クリスマス(燐鉱石)など多くの航路を開設、貿易会社の一部門であった為に社有船こそ少ないものの、多くの航路と用船を抱えた「社外船の雄」として日本海運界の一翼を担うまで至りました。

第一次世界大戦

 大正3年7月、欧州大戦が勃発するや、全世界が深刻な船腹不足となり日本海運は飛躍的な成長を遂げる事となります。
 三井船舶部も<生駒山丸><三池山丸><蓬莱山丸><宝永山丸>を相継いで建造、香港、バンコク、シアトル・サンペドロ、メジロネス・アントファガタ、ノーフォーク、ホノルルなど各地に進出、大正4年に<金剛山丸>が三井船舶所属船として初めてパナマ運河を通航(邦船としても3番目)、また<天拝山丸>が(パナマ運河の閉鎖などで偶然にも)世界周航を行なうなど大いに発展し、大正6年には社船10万トン、定期用船33万トン、不定期用船85万トンを有する世界的な海運会社となりました。

定期航路進出

 大正7年1月、欧州大戦が終結すると一転して船腹過剰となり、深刻な海運不況が世界を覆います。不況に加え、鈴木商店や三菱といった同業者の台頭や山下汽船や川崎汽船といった海運新勢力の伸長で三井船舶部は非常に苦しい立場に追い込まれ、勢力を大きく縮小させます。
 しかし、一方で大正9年には<剣山丸>を大連=神戸=横浜=シアトル航路に配船、三井船舶部としては初めての定期運航を開始、また不経済船を整理し、<赤城山丸>など優秀なディーゼル船を積極的に配備して船質改善を図っていきました。
 昭和に入っても海運不況は止まず、おまけに世界恐慌、排日激化などひたすらマイナスの事態が続き陰々滅々の様をしめします。
 長引く不況で三井船舶部では従来の不定期主義を捨て、定期航路進出を決意、先のシアトル航路に続き昭和3年に<生駒山丸>をバンコク航路、<鞍馬山丸>を大連航路、昭和6年には<利根丸>を比島航路に配し定期航路業務を開始します。

海運飛躍期

 経済政策の(一時的な)成功や国際情勢の変化で日本海運界は一気に好況に転じ日本商船隊の船腹は昭和9年の3803万トンから昭和12年には5005万トンまで増加、押しも押されぬ世界3位の大海運国となりました。
 この時期、特に顕著な飛躍を遂げたのは三井船舶部など「社外船」(日本郵船と大阪商船以外の船)で、川崎汽船、国際汽船、山下汽船などが英連邦などから排斥をうけるほどの大発展を遂げました。
 社外船の雄、三井船舶部も昭和7年にニューヨーク航路、8年にインド航路、10年にイラン湾航路を新設していきました。
 昭和8年、北米航路で三井船隊の象徴ともいえる舷側の「MITSUI LINE」の白書が実施され、昭和10年8月、「三井のグリーンボート」として知られる緑色の舷側塗装も開始されました。
 船舶改善助成法の成立をうけ、三井船舶部は船列の充実化を図り、助成法適用船として<吾妻山丸><天城山丸>、第一次施設船として<阿蘇山丸><青葉山丸><朝日山丸><明石山丸>、第二次施設船として<音羽山丸>、第三次施設船として<有馬山丸>、さらに独自に<大島丸><金城山丸><御室山丸><金峯山丸><浅香山丸><熱田山丸>を建造、絶頂に達しました。
 しかし、昭和11年7月、航路統制法施行。昭和12年7月海運自治連盟設立、10月、臨時船舶管理法施行、13年5月、国家総動員法施行、昭和14年にはいると徴用が相継ぎ船腹不足となり、船腹を調整すべく海運統制委員会が設立されるなど、破滅の足音は着実に迫ってきていたのです。

太平洋戦争と三井船舶株式会社

 社外船の雄といえど三井物産船舶部はあくまで貿易会社の一部門であり「成るべく他人の荷物は運ばない事」を旨とする性質がありました。
 そこで、明治末頃からさかんに船舶部の独立が唱えられていましたが、三井物産側の意向もありなかなか実現せずにいました。
 ところが昭和17年3月、政府はついに海運の統制を開始。4月には船舶運営会が設立され、軍徴用船を除く全船舶が管理下におかれる事になり、三井物産の一部門という立場では今後の運営にも差し障りが出る可能性があるとして、昭和17年12月、船舶部は三井物産から独立し所有船舶30隻15万総トンの三井船舶株式会社が設立に至りました。
 三井船舶は船舶運営会の元、実務者第3班の班長会社に指定され、中核実務者として絶望的な戦時海運を支え、また、海運整理では多くの中小海運会社を吸収するなどで新造・継承・購入併せて66隻32万総トンを増加しましたが対する戦火による喪失は船舶部時代の損害も含めて79隻49万総トンで残存は15隻5万総トンと壊滅しました。
 ただ、生き残り15隻のなかに、ただ2隻残った戦前の優秀船のうちの1隻である<有馬山丸>(8600総トン)が居たのは不幸中の幸いといった所でしょう。(ちなみにもう1隻は日本郵船<氷川丸>)。

 なお、三井船舶は戦後、船隊を再建し日本海運の雄となりますが、海運再編では住友系の大阪商船と合併するという大技を行ない、大阪商船三井船舶として今日に至っています。


 *大阪商船三井船舶株式会社のホームページ