大 阪 商 船

 日本郵船よりも長い歴史を持ち、時には日本郵船を超える事さえあった西の雄、大阪商船(OSK)の概略史です
群小乱立

 明治政府は明治2年、平民の船舶保有を解禁、翌3年には商船規則を発布して西洋型船舶の取得を奨励、これを受けて各藩や菱屋、播磨屋、鴻池や三菱などが商船を取得、各地と大阪・東京を結ぶ海運を開始しました。
 明治10年、西南戦争により阪神=九州の輸送量が飛躍的に増加、しかし業界最大手の三菱は所有船舶の大半を御用船(徴用)にとられた為、船腹が不足、その気に乗じて70社以上の商船会社が瀬戸内航路に誕生しました。
 戦争終結後は当然ながら船腹過剰となり、熾烈な競争の結果、事故も頻発するようになり、明治13年、大阪府ほか13県の指導により航路同盟が締結、取締会社として同盟汽船取扱会社が設立されました。

大阪商船誕生

 しかし、一端は止んだ競争は忽ち再燃、中小の海運会社は立ち行かなくなり、船の整備費用も出せない状態となりました。
 明治15年にはいると事態打開の為、大阪富豪である住友家の総理人・広瀬宰平を長とする大連合の結成が進められる事になりました。
 しかし、いざ連合となると個々の船主の利害が衝突してなかなか纏まらず、さらに連合後の会社運営の問題で創立委員会と船主までが対立、一時は事態が完全に生き詰まり、東京から船舶の査定の為に派遣されていた官吏が引き上げるといった騒ぎまで起きましたが、広瀬宰平ら創立委員や地方庁の奔走により事態を収拾、2年ごしの努力の結果、ついに「有限会社・大阪商船会社」が発足しました。
 明治17年5月1日、伊万里行<豊浦丸>、細島行<佐伯丸>、広島行<太勢丸>、尾道行<盛行丸>、坂越行<兵庫丸>の5隻が大阪港を出港、大阪商船が開業しました。
 参加船主55名、船舶93隻、資本金120万円、大阪=長崎など18本線4支線、地上勤務100余名と海員1000余名による出発でした。
 大阪商船の船出は決して穏やかなものではなく、出港早々に大阪商船に参加しなかった船主と競争、不振航路の問題、船舶の疲弊・老朽化など問題点は目白押しであったが、競争で対立船主を破り、航路の整理を行ない、政府からの補助金を得て我が国最初の鋼船である<加茂川丸>や当時では珍しい3連レシプロ機関を搭載した<宇治川丸>など優良船舶を建造、着実に地歩を固めていきました。
 この政府助成金に関して所謂「命令航路」がセットとなっていた為、一部の株主が反発、経営陣と株主の間で再び対立が発生、これにより創立委員長だった広瀬頭取は辞職、後を継いだ河原頭取の活躍で事無きを得たのですが、なんとなく中央が嫌いな大阪商人らしいエピソードではあります。

内海から近海へ

 結成に反対していた対立船主を破ったのも束の間、今度は共栄社(徳山)や宇和島運輸(宇和島)、共同組(大阪)、日本共立汽船(和歌山)、大川運輸(大川)、阿波国共同汽船(徳島)、伊代汽船(愛媛)、土佐郵船(高知)などが内海方面の海運に参入、大阪商船結成前を思わせるような大乱立となりました。
 明治22年、競争に疲弊した各社が協定を結ぶ事となり、翌年8月には大阪発航の中国航路の運賃の合併計算が開始、明治24年3月には九州航路や大阪港以外の諸港にも拡大、明治26年には同盟組織を拡大し、関西汽船同盟が結成されました。(のちの関西汽船)
 航路協定により後顧の憂いが無くなった大阪商船は明治23年7月、初の海外航路である大阪釜山線を開設、続いて26年3月大阪仁川線、6月朝鮮沿岸線を開設。瀬戸内海のローカル汽船会社から国際海運会社への最初のステップが踏み出されました。

戦雲と海運興隆

 明治27年、日清戦争が勃発すると大阪商船も32隻1万2千総トンと保有船舶の過半数が徴用され、このうち<木曽川丸>は豊島沖海戦に追従し、その勝報を逸早く伝えた事で知られています。
 日清戦争の勝利で資金と信用、国際競争力を得た日本政府は商船隊の拡充を計画、明治29年には航海奨励法および造船奨励法が施行され、明治29年、日本郵船は欧州・米州・豪州航路を開設、31年には浅野回漕部が改組した東洋汽船が北米航路を開設、日の丸商船隊の飛躍が始まりました。
 海運興隆の風潮を受け、大阪商船も明治29年に台湾航路、31年に揚子江航路、32年北支航路、33年南支航路と日本の権益拡大に追従する形で航路の拡張が行われ、また国内の東進も行われ、同年に共立汽船を買収し伊勢湾を勢力下に納めました。
 明治33年5月に発生した北清事変の影響で日本の大陸における権益が拡大すると大阪商船も近海航路の整備に努め、ダグラス汽船を台湾から放逐するなど積極的な活動を展開しました。
 そして、日露戦争。建国以来希有の国難であるこの戦争で徴用された船舶は266隻67万トン。対して日本の開戦時の保有商船は1570隻66万総トン、まさに総ざらえというべき総力戦でした。
 この戦争で大阪商船は<平壌丸>以下73隻7万8千総トンを提供、そのうち<愛国丸>は第3回旅順港閉塞作戦に使用され沈没、<太田川丸><舞子丸>も触雷するなどの損害を被りましたが、戦争による船腹不足と戦後の権益拡大により船列は飛躍的に増強され、航路も専ら朝鮮・日本海方面の拡充につとめ、大阪ウラジオストック、大阪天津、大阪大連、香港上海などの航路が新設され、日本郵船に次ぐ本邦第二の汽船会社としての地位を揺るぎ無いものにしていきました。

内海から遠洋へ

 昭和40年に入ると戦争の反動で深刻な海運不況が訪れましたが、大阪商船はあくまで積極路線を進む事を決意、土佐商船などを買収し内地航路の整備を開始、40年8月には資本金の1/4を割って内航部を設立、大阪大島各島航路や大阪別府線などが開設されました。
 近海航路でも<櫻丸><亜米利加丸>など優秀船舶を次々と投入、朝鮮経由長崎大連線、大阪清津線、浦塩直行線、北海道樺太線などを開設、また、朝鮮郵船や日清汽船といった現地企業の設立にも積極的に参与しました。
 内地、近海での基盤を確保した大阪商船は念願の遠洋航路開設にとりかかり、明治40年1月より最大の保有船である<桑取丸><襟裳丸><新竹丸><室蘭丸>など4500トン級の貨物船を使用して北米、南洋、東亜方面の不定期運航を開始しました。
 そして42年7月、大陸横断鉄道であるシカゴ・ミルウォーキー&セントポール鉄道と提携に成功し、香港タコマ航路(ビューゼットサウンド線)の開設に至りしました。この航路開設に大阪商船が投じた費用は新造船<たこま丸>型(6000トン)6隻の建造費を含めると資本金の1/3にあたる650万円に達し、まさに社運をかけた大事業でした。さらに大正2年にはボンベイ航路の定期航路化にこぎつけ宿願の遠洋航路進出を果たし、極東の一商船会社から世界の商船会社へと発展を遂げました。

欧州大戦

 大正3年7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦を布告、これが引き金となりヨーロッパ全土に戦火が拡大、欧州大戦、後に第一次世界大戦と呼ばれる戦争が勃発しました。
 日本も同年8月にドイツに宣戦を布告し青島攻略や地中海に艦隊を派遣したり大正7年のチェコスロバキア軍救出作戦(シベリア出兵)などに参加したりしていますし、地中海やインド洋でドイツの通商破壊作戦の犠牲となった船舶もありますが、戦争特需により収支勘定は完全にプラス、開戦時は世界六位の海運国だったのが停戦時には3位まで浮上していました。
 大阪商船もこの機会を逃す筈はなく、大正3年、青島陥落に伴い大阪青島線、大正4年にサンフランシスコ航路、横浜香港線、大正5年に豪州南洋線、南米線、大正7年にスマトラ線と次々と新航路を開設、世界的な船腹不足を背景にシンガポールや欧州など強固な航路同盟が存在する航路にも食い込んでいきました。
 一方、内地航路は大正3年、樺太庁の指導で設立した北日本汽船に北海道樺太航路を移譲、同年末には摂陽商船を設立し大阪湾内の各線を譲渡するなど、航路の整理が行われました。
 大正8年6月、欧州大戦が終結し深刻な反動が日本を襲います。しかし、大阪商船は停戦直後の7年12月に横浜ロンドン線を開設、さらにアントワープやロッテルダムに進出、大正8年には香港ニューオリンズ線、基隆シンガポール、基隆アモイ線、大正9年に欧州線をハンブルクまで、香港ニューオリンズ線をカルカッタまでそれぞれ延長、パナマ経由ニューヨーク線、日本ジャワ・カルカッタ線を開設するなど、あくまで強気の姿勢で航路拡大を図っていきました。

郵商協約

 関東大震災の影響で不況は脱したものの、悪化してゆく支那情勢など依然、曙光を見いだせない状態が続きますが、あくまで大阪商船は航路拡大を行ない、大正14年上海天津線、大正15年アフリカ東海岸線、高雄大連線、昭和3年フィリピン線などを加えていきました。
 昭和5年、国際的不況の影響をうけ、日本海運界はまたしても重大な打撃をうけ、大阪商船も25年ぶりに無配転落という深刻な状況に陥ります。
 翌年になると事態は好転するどころか満州事変に伴う支那方面での排日運動激化や英国の金本位制の廃止などでますます深刻な状態となっていき、大阪商船も生き残りを図るために日本郵船との協定、いわゆる「郵商協約」を行ないます。
 これは、過度の競争を排除してきた従来の協定を強化したもので、日本郵船が欧州・北米航路を独占するかわりに大阪商船が南米・近海航路を独占するという「世界分割計画」といべきもので、以後、日本海運図はこの協定により塗り別けられる事になります。
 大阪商船はこの協約でビューゼットサウンド線を廃止しますが、この航路に配船されていた優秀船舶を大連線に移し、またニューヨーク航路に<畿内丸>など高速船を配備し従来の48日から28日に短縮したニューヨーク急航線を開始するなど、航路の充実を図りました。

優秀船建造

 昭和7年、日本政府は老朽船を整理し、代わりに優秀な新造船の建造補助を行なう船舶改善助成施設を実施、老朽船94隻40万総トンを解体し、<浅間丸>や<氷川丸>(ともに日本郵船)など31隻20万総トンを建造、さらに昭和10年、11年にも第2回、第3回助成施設が実施され、それぞれ8隻5万1千総トン、9隻5万1千総トンの新造が行われました。
 大阪商船では、助成施設により<かんべら丸><東京丸><盤谷丸>を建造、オーストラリア航路やバンコク航路の拡充を行ないました。
 昭和12年には優秀船舶助成施設が実施されました。こちらは従来の老朽船の更新が目的ではなく、軍事転用を考慮した優秀船舶の建造が目的の戦時色の強いもので貨客船12隻15万総トン、その他16隻14万総トンという大規模な計画でした。
 大阪商船はこの施設によりOSK船隊のフラグシップというべき<ぶらじる丸><あるぜんちな丸>、アフリカ航路向けの<報国丸><愛国丸><興国丸>の建造を開始しました。

戦雲迫る

 昭和10年、蘭印におけるオランダとの対立が先鋭化し、これに対抗すべく大阪商船、日本郵船、石原産業などが結集して南洋海運が設立、昭和14年には排日運動の激化に伴い大阪商船、日本郵船、日清汽船が合同し東亜海運が設立、昭和15年7月には外国用船を管理する帝国船舶が設立されるなど、次第に統制色が強まっていき、ついに昭和15年11月、海運の自由競争が停止となり、「企業」としての活動を停止する事になります。
 航路の方も昭和15年5月、欧州方面の戦局激化に伴い日本=欧州航路が中止、7月にはアフリカ西海岸線、9月南米東海岸線、16年7月にはパナマ運河の通航が禁止となりニューヨーク線が、さらに対日資産凍結を受けてオーストラリア、インド線などが相次いで中止となりハイフォン線、大連線など近海線を残すのみとなりました。

太平洋戦争

 開戦5ヶ月目の昭和17年4月、軍徴用船を除く1000トン以上の鋼製の全船舶は政府に徴用され船舶運営会の管理に置かれる事となりました。
 大阪商船は運航実務者として引き続き船舶の運航実務を行なうと共に、第ニ班の班長会社として中小汽船会社の指導を行ない、絶望的な海上輸送作戦に従事しました。
 大阪商船の昭和17年1月の時点の保有船舶は171隻59万総トン、大戦中の増加は新造82隻34万6000総トン(うち、戦標船73隻28万6000総トン)、海運合理化により国際汽船や右近商事との合併で77隻23万総トン、外地で建造した12隻1800総トン、対して減少は戦没219隻99万総トン、海難・解体などを含めると234隻103万総トンの減少で終戦時には保有船舶45隻11万4000トン。しかも、そのほぼ全てが戦標船という完全な壊滅状態となっていました。

その後...

 太平洋戦争では他の商船会社同様、全てを失いゼロからの出発となりました。
 海運再編成では当初は日東商船、大同海運と合併する方向で話が進められていましたが、日東商船と折り合いが付かず、替りに三井船舶との合併案が浮上、財閥系大企業の対等合併という大技が実行され、大阪商船三井船舶(商船三井)となりました。この合併で大阪商船三井の外航船は197隻231万総トンとなり、日本郵船の153隻228万総トンを凌ぎ、日本最大の商船会社となりました。(後に日本郵船に再び追い抜かれて今日に至っていますが・・)
 移民航路を持っていた強みからか、戦後も外航貨客船の建造を続け、<氷川丸>と共に日本郵船が客船業務から撤退した後も客船の灯を守り続け、近年も<ふじ丸>などを建造してクルーズブームの礎を作り、その伝統の客船サービスは日本郵船の誇る日本最大の豪華客船<飛鳥>と比べても勝りこそすれ劣らないものだそうです。

 なんて事を書いていると商船三井とナビックスラインの合併(事実上の吸収)のニュースが!商船三井は再び「日本最大の海運会社」に返り咲く模様です。

 *大阪商船三井船舶株式会社のホームページ