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古都突破作戦

 「伏見桃山方面に進出、同地を占領後に鳥羽口より京都市街に突入し丹波口より突破する。その後は嵯峨野・嵐山方面を制圧して大阪に凱旋する」

 という訳で(どんなだ?)、一千年の王城の地、京都に行って来ました。
 今回の目的は乃木神社にあるという巡洋艦<吾妻>の錨と嵐山にあるという、電気と電波の守り神を祭っているという「電電宮」(こっちは軍事とは関係ないですけどね)の2本立てです。

伏見港 乃木神社は明治天皇陵の御陵口ですから、京阪電車だと「伏見桃山」が最寄駅ですが、この駅は急行が止まらないので、一駅手前の「中書島」で降りて、伏見港公園などに寄り道してみました。
 伏見港といっても、京都市内に海なんてないですから、当然河港。濠川と宇治川の合流点に位置する港で100年ぐらい前までは大阪と京都を結ぶ交通の要衝として繁栄していたそうです。
 伏見港公園は伏見港開港400年を記念して整備された公園で、伏見港と水運の主流だった三十石船が復元されていました。

 伏見港公園から北へ行くと坂本竜馬ゆかりの寺田屋があります。私は海軍ファンですが、幕末は何故か佐幕派なので今回はパス(笑) そのまま御陵口に向かいました。

御陵口  明治天皇御陵。明治天皇と皇后の昭憲皇太后の御陵です。さて、昭憲皇太后ですが、確かに大正天皇から見れば皇太后ですが、こういう称号は最高位のものを用いるので昭憲皇后となる筈なのに、何故か皇太后として表記されています。
 なにやら政治ドラマとか歴史小説の題材になりそうな、壮大な秘密がありそうですが、実は・・・単なる宮内庁の役人と大正天皇のミス/勘違いが原因で、「昭憲皇太后」として勅令を出してしまった為にひっこめられなくなって表記の方が変ったという話です。


 御陵口からさらに東に進むと最初の目的地、乃木神社が見えてきます。意外と小さな神社で境内には吾妻の錨などの記念碑の他に満州から持ってきた第三軍が司令部として使用した民家なんかがありました。
乃木神社 第三軍司令部

吾妻主錨  吾妻の主錨。駆逐艦<初霜>の錨に比べてふた周りぐらい大きい印象を受けました。まあ、<初霜>と<吾妻>じゃ船の重さが3倍違いますから、同じ錨を使ってたんじゃ走錨してエライ事になりますが・・・
 一等巡洋艦<吾妻>。明治29年度計画(第1期拡張計画)の第2号一等巡洋艦として計画、技術取得と外交のバランスからフランスに発注され明治33年にル・アーブル(フランス)で竣工しました。
 排水量9326トン、速力20ノット、主兵装20センチ連装砲2基という強力な装甲巡洋艦ですが、船体が長すぎて収容できるドックが浦賀船渠だた1ヶ所という、まだ発展途上の日本にはあきらかに部不相応なところがありました。しかし、日本海軍はこれを使いこなし、日露戦争では第二艦隊の主力としてウルサン沖海戦、日本海海戦で活躍、第一次世界大戦でもドイツ巡洋艦<エムデン>を追ってインド洋まで遠征した功労艦として知られています。
 大正10年に海防艦に転籍となり、その後はら舞鶴の海軍機関学校の練習艦として使用されていましたが、昭和19年2月15日に解体・除籍となりました。戦争中に老朽化を理由に解体された艦は非常に珍しいのですが、何があったのでしょうか?

吾妻


三年坂 さて、次はJR桃山から京都に出て、そこから嵐山まで出る予定でしたが、時間的に余裕があったので、予定を一部変更して京都霊山護国神社に足を伸ばして見ました。
 場所は清水寺と八坂神社の間、折角京都に来たのだから観光地の1ヶ所も見ていこうと清水寺を経由していきましたが、やっぱり観光地はえらい混雑してて人でびっしり。しかし、こういう混雑を見ると、「ああ、コミケって偉いよなぁ・・」なんてつくづく思います。
 余談ですがこの写真の坂は産寧坂、かつての葬送地である鳥辺野に通じる道でもあり、三年坂とも呼ばれこの坂で転ぶと三年後に死ぬといういわく付きの坂です。こういういわくのある場所はそれなりに印象深いなにかがあるものですが、こんだけ人がびっしりいるとなんも感じませんでした。

 護国神社は各道府県に原則として1社づつ(複数ある県もあるし東京都には無い)ある神社で、明治維新やその後の戦役などで国家に殉じた英霊を祭る神社です。京都府の京都霊山護国神社は創建が明治元年五月と護国神社グループの中心となっている東京の靖国神社より歴史のある神社ですが、どっちかというと戦没将兵の云々というより、坂本竜馬や桂小五郎ら明治維新の志士の墓がある事の方で有名な神社です。
 で、前述のとおり、私は佐幕派なのでノーマークだったのですが、記念碑のひとつぐらいはあるだろうし、参拝だけでもしてみる価値はあるか、という事で計画を変更して五条へ。
 神社の入り口に部隊名が書かれた銘板がありました。第23野戦防疫給水部、独立歩兵第11大隊、騎兵(捜索)第20連隊、歩兵第120連隊、駆逐艦<長波>、輜重兵第116連隊、工兵第53連隊、歩兵第109連隊、第116師団衛生隊、陸軍特別見習士官、野砲兵第122連隊、歩兵第128連隊、野砲兵第53連隊。なんで<長波>が混ざっているのか知りませんが、陸軍部隊の方は当然ながら「京都部隊」ですが、何故か第116師団の部隊が多く、一部は第53師団の部隊なのですが、「京都連隊」といえば真っ先に出てくるであろう歩兵第9連隊とかの第16師団所属の部隊が無いのが不思議です。
 残念ながら拝殿は工事中でしたが、境内には各部隊の記念碑やらが並んでいて、さりげなく「ラバウルの石」なんて記念碑もありました。
護国神社の記念碑 ラバウルの石
長波慰霊碑  ところが、肝心の<長波>の記念碑が無い。銘板やら手すりには名前があるから、何かある筈・・・という事で社務所で聞いてみると墓域の方にあるとの事。神社に墓があるのも何か変な気がするけど、とりあえず行って見るとありました。長波慰霊碑。

 駆逐艦<長波>。日本海軍が追い求めた艦隊型駆逐艦の「解答」というべき夕雲型駆逐艦の4番艦として昭和17年6月30日に竣工しました。
 ご周知のとおり、太平洋戦争では日本海軍の想定した艦隊決戦は発生せず、<長波>も長すぎる槍を持て余しての艦隊護衛やネズミ輸送に従事する事になりますが、昭和17年11月に第二水雷戦隊の旗艦として望んだルンガ沖夜戦では予備魚雷を陸揚げした片手状態ながらも奮戦し「日本海軍最後の勝利」を飾ることに成功しています。
 昭和19年11月11日、オルモック湾輸送作戦中に空襲を受けて沈没。日本海軍の栄光と悲劇の標本のような艦でした。

 墓域(正しくは旧霊山官修墳墓というらしい)には1043名の霊(みたま)が祭られている、とパンフレットにあり(私的には「名」じゃなくて「柱」だと思う今日この頃)、坂本竜馬とか中岡慎太郎、桂小五郎、宮部鼎蔵といった志士の墓が山一帯にあるのですが、その他に何故か東京裁判で唯一、無罪に投票したことで知られるインド代表のパール判事の記念碑なんかもありました。
坂本竜馬の墓 パール判事の記念碑

電電宮  今回の作戦の最後は嵐山。軍事関係じゃなくて本職&趣味の方の話(?)ですが、「電気と電波の守り神」を祭った「電電宮」に行って見ました。
 場所は嵐山。といっても桂川(保津川)の南側にあり、賑やかな嵐山公園(中之島公園)から10分ほど歩いた所にある法輪寺というお寺の鎮守社で、電電宮の他に電電塔もあり、そちらにはエジソンとヘルツのレリーフまでありました。
 これらの施設は「電電宮護持会」なる組織が整備しているようで、その会員企業を列挙した看板もあったのですが、電力会社である関西電力、朝日放送、毎日放送、読売テレビ、京都放送、ラジオ関西といった放送会社、シャープや三洋、松下、沖といった電器・通信機器メーカー、NTTや大阪メディアポートのような通信会社まで、「実は関西の電気通信業界を支配する為の組織なんではなかろうか?」と冗談ぬきで思えるぐらいの凄いラインナップでした。

看板 電電塔