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大阪の戦跡訪問記 弾痕編

 航海日誌・訪問記シリーズは私の旅行先の関係(コミケのついでともいう)から、関東地方が多いので、たまには地元・大阪を廻って見ることにしました。・・とはいっても、大阪で海軍関係というと、以前に「最上訪問記」でご紹介した通報艦<最上>のマストぐらいしか思いつかなかったので、記念碑や戦跡を中心に廻ることにしました。
 今回はそのうち、空襲の時に付いた弾痕についてご案内することにします。

長柄橋南詰慰霊観音 

 最初の弾痕は旧長柄橋の橋脚の弾痕。
 弾痕は昭和20年6月7日、409機のB29と138機のP51により大阪市北部を中心に1万人近い死傷者と6万戸の被災家屋を出した第三次大阪大空襲の時に付けられたものです。
 この時、長柄橋付近の河川敷には大淀区の住民が避難してきていたのですが、そこに1トン爆弾が投下され、さらに機銃掃射が行なわれて400名を超える被害を出したそうです。
 昭和57年に新橋が完成し、旧橋は撤去されましたが「旧長柄橋の空襲跡を保存する会」などの尽力で弾痕の部分が記念碑として切り出され、新橋の南詰に慰霊の観音像と共に安置されています。
 弾痕は風化が見られますが、記念碑として保存されているので手入れは行き届いているようです。

長柄橋南詰:
 地下鉄谷町線「天神橋筋六丁目」 北へ約1km


柴島浄水場の壁の弾痕 

 次は長柄橋を渡り、向かい岸の東淀川区の柴島浄水場の塀の弾痕。
 どうでもいい話ですが、柴島は内代(うちんだい)、放出(はなてん)、喜連(きれ)などと並ぶ大阪で有数に読みにくい地名で「しばじま」ではなく「くにじま」と読みます。
 大阪市民の水瓶・柴島浄水場は当然の如く空襲の目標となり、前述の第三次空襲では直撃弾を受けて一週間ほど水道水の供給ができなかったそうです。しかし、浄水施設の攻撃というのは、どう考えても問題のような気がしますが・・・
 弾痕は柴島浄水場の北側の民家が並ぶ狭い道に面した一角にあります。他の部分の壁は新しいものに変えられていたのに、ここだけは古い壁のままでした。一応は保存とかを考えているのでしょうか?

柴島浄水場:
 阪急京都線「崇禅寺」 南へ500m



南方のガード下の弾痕 

 柴島浄水場から西へ1kmほど行くとJR東海道本線と阪急京都線が立体交差する場所に行き当たりますが、ここにも弾痕があります。
 この弾痕について、詳しい事は判らなかったのですが、空襲時に高架に逃げ込むことがよくあったらしいので、おそらく避難してきた人を狙った機銃掃射によるものと思われます。

阪急・JR交差高架橋:
 阪急京都線「南方」 東へ400m



鷺洲ガード下の弾痕 

 次は再び淀川を渡ったJR東海道本線の鷺洲高架。最近、急速に開発の進んでいる梅田の西側ですが、この辺は未だ「いかにも下町」という感じのする地域です。
 ここの弾痕は6月7日の第三次大阪大空襲で避難して来た人を狙った攻撃で付いたそうです。
 壁面一面に弾痕があり、隣の上福島の高架にも弾痕とおぼしき痕があり、機銃掃射の激しさを物語っているようです。

鷺洲高架橋:
 JR大阪環状線「福島」 JR東海道本線に沿って北の方へ800m



森之宮神社の狛犬の弾痕 

 大阪城の南、森之宮。それなりににぎやかな街の一角に小さな神社があります。正式名称を鵠森神社というそうですが、一般には森之宮神社として知られています。
 大阪城周辺は軍事施設が集中していた関係で、ほぼ毎回、大空襲の被災をうけて丸焼けとなり、神社の狛犬にも弾痕が刻まれました。
 なお、ここの弾痕は今回紹介したほかの弾痕と異なり、修復されているので、弾痕そのものを見ることはできません。(埋めた痕ははっきりとわかります)

森之宮神社:
 JR大阪環状線「森之宮」 南へ100m



大阪城の弾痕 

 最後は大阪城。この辺は中部軍管区司令部やら第4師団司令部、大阪砲兵工廠やら歩兵第8連隊など軍事施設が林立しており、当然ながら徹底的な空襲の対象となりました。
 天守閣は被災を免れましたが、京橋門や一の櫓など、いくつかの門や櫓が焼失し、石垣も数ヶ所で崩壊するなどの被害を出しました。
 弾痕が残っているのは山里曲輪と呼ばれる一角の石垣で、ここは豊臣秀頼と淀君が自害した場所として知られています。

 なお、前述のように大阪城やその周辺には軍関係の施設が多く、いくつかの記念碑や建造物は今日も残っているので、機会があればそれらの紹介もしたいと思います。
大阪城山里曲輪:
 JR大阪環状線「大阪城公園」 大阪城公園内を西の方へ800m程度