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 三園制覇
8/9
大阪→横浜→浅草
8/10
浅草→九段下→両国→川口→浅草
8/11(終日コミケ)
浅草→有明→浅草
8/12
浅草→水戸→大阪


 作戦2日目。この日は午後からひゅぎぃさんのサイトのオフ会があるので、主に近場のスポット探索。

魚雷  
復興記念館の魚雷の残骸
戦時下の生活  
戦時下の生活に関する展示。
B29の機銃  
撃ち落したB29の機銃。
敗戦時に埋めたのを見つけたらしい。
風船爆弾  
人類初(?)の大陸間攻撃兵器である風船爆弾。本物はこれの5倍
勝海舟生誕碑  
勝海舟生誕碑。
私としては、あまりこの人は評価していないのですが一応。
駆逐艦<不知火>主錨  
駆逐艦<不知火>主錨。船が小さいので、錨もコンパクト。

◆まずは靖国神社

 まず靖国神社で参拝。割と靖国神社は外人さんが多いのですが、今回は韓国語を喋っている集団がいました。えらく若い人たちでしたが敵情視察でしょうか?それとも向こうの異端派の方々でしょうか?それともノンポリで単に話題になっているから観光に来たんでしょうか?

 参拝後、遊就館を見学。リニューアルが完了しており、非常に立派になっていました。真新しいエントランスホールには新たに配備された零戦52型(河口湖自動車博物館にあった原田コレクションのもよう)がでーんと置かれています。
 受付で会員証を見せて中に入ろうとすると、入場券を渡されました。ん?今までは会員証を見せるだけだったんだけどな・・・と思って先に進むと、自動改札機が設置されていました。おぉ、ハイテク〜。でも、案内のお姉ちゃんは立っているし、人力で裁けないぐらい混むとも考えないので意味ないような気も・・・(それとも平時はお姉ちゃんは配備されてないんだろうか?)
 中身も映像を使った展示やら凝ったデザインのパネルなど、本当に綺麗になっていました。しかし、全体的に兵器や戦史についての記述が増え、兵卒や民間人の展示が減って「戦争博物館」化したみたいな印象を受けました。いや、遊就館の本来のスタンスからすれば、それが正しいのかもしれませんが、戦争を賛美する事と国難に殉じた人たちを敬う事は別なんじゃないのかな?なんて気もします。
 また、同様に今回の改装でミュージアムショップも増強され、様々なアイテムが並ぶようになりましたが、靖国神社と直接の関係のない兵器のプラモデルや各種グッズ、「海軍さんのカレー」や自衛隊のポストカードなんかを扱うのはちょっと違うような気がしました。
 まあ、靖国も難しい立場ですから、急進に走る傾向があるんでしょうが、右ではない(と主張する)私としてはあまり極端に走られると不快感さえ感じてしまいます・・・

◆意外に充実、両国地区

 靖国神社を後にして次は両国。特に軍と縁のあった地域では無い筈ですが、妙に軍関係の史跡があったりします。そーいえば、以前に見に来た駆逐艦<初霜>の錨なんかもこの地域です。

 まずは横網町公園、東京都復興記念館にある魚雷。なんで復興記念館に魚雷があるかというと、東京高等商船学校(海軍経理学校という説もあり)で教材として使っていたものだそうで、関東大震災の時に焼けてしまったものとの事。サイズ&時期的に初期の45cm魚雷なんではないでしょうかね。

 そのまま南に進むと東京江戸博物館。東京の歴史を扱った非常に大きくて立派な博物館です。戦争関係は東京ゾーンに空襲や戦時下の生活に関する展示があり、風船爆弾(ミニチュアレプリカ)やB29の機銃(本物)なんかがありました。
 風船爆弾とは爆弾をくくりつけた気球を太平洋岸から放球して偏西風に乗せて北米大陸を直接攻撃するとんでもない兵器。欠点は搭載量が小さい事(1発で約20kg)、届かない可能性が高いこと(それでも1割ぐらいは届いたらしい)、どこに落ちるか判らない事など。
 気球は和紙をこんにゃく芋で張り合わせ、特殊加工したもので、一見哀愁を感じますが、各種素材を色々試してみて最良と判定されたものだそうです。ちなみに海軍も潜水艦から飛ばすつもりで風船爆弾を研究していましたが、こちらは小型で気球部分は羽二重を使った高級品(?)でした。
 「戦果」は山火事数件と6名の死者だけでしたが、アメリカ側は無用なパニックを避ける為と細菌戦に持ち込まれる事を恐れて事態を重視、徹底した報道管制を行う一方、放球基地や水素工場の重点爆撃を行いました。実際、日本側でも細菌戦の案があったのですが放球事故やジェット気流に乗らなかった時にエライ事になりかねない事(実際、放球事故で3名の戦死者が出ている)やエスカレートを危惧するなどの理由で実施されませんでした。

 ところで、この博物館、フラッシュ撮影は一部を除いて禁止なんですが、平気で使う人の多いこと。なかにはガラスケースの反対側で私が撮影しているのに(もちろんフラッシュ&AFイルミネータは切ってある)、フラッシュたいた馬鹿もいました。一般に公共ルールやマナーに関しては東京と大阪では大阪の方が悪いといいますが、大阪の人はマナーの破り方の程度を心得ているのに対し、東京の人は本当に傍若無人な振る舞いをする人が目立つような気がするのは単なる地元ひいき目でしょうか?

 さらに南に進み、JR線を超えて両国公園。なんかお祭りの飾りつけをやっていました。
 幕末の幕臣にして明治新政府の高官、勝海舟の生誕地で記念碑があります。幕臣時代の活躍で有名な人ですが、新政府でも初代の海軍卿を勤めており、一応は海軍ゆかりの人物です。
 もっとも、幕臣出身という事で影響力は小さく、また国内も海軍どころの騒ぎではなかった為に後に与えた影響はあまり大きくなく、実際に海軍の建設は二代目と四代目の海軍卿である川村純義が用地を定めて(三代目は榎本武揚)、その次(初代海軍大臣)の西郷従道(と山本権兵衛のコンビ)が礎を成したといいってもいいと思います。

 その隣が両国小学校。ここには東雲型三等駆逐艦の<不知火>の錨があります。<不知火>は明治29年にロシアとの戦争が不可避とみた日本政府が実施した軍拡計画によりイギリス・ソーニクロフト社で建造された日本で最初の駆逐艦の一隻で竣工は明治31年5月13日、日本に回航され、日露戦争で活躍、大正11年に駆逐艦籍から除かれ、大正14年に廃船となりました。
 常備排水量322トン、速力30ノット。武装は8cm単装砲1基、57mm単装速射砲5基、45cm魚雷発射管単装2基。同時にヤーロー社に発注された雷型よりわずかに小型・低速ですが武装は同等となっています。
 駆逐艦は本来は水雷艇から主力艦を護衛する為の艦種でしたが、軽快性と艦隊に随伴できる航海性を生かして水雷襲撃の方を専門にするようになり、さらに太平洋戦争の頃には対空・対潜なんでもこなす汎用艦となっていました。軍艦の例に漏れず際限なく巨大化しますが、元が小さかっただけに倍率が多きく、太平洋戦争期の秋月型で8倍、現在のこんごう型にいたっては20倍になっています。

 校庭の開放日だったのか、校庭には多くの児童がいました。錨は学校の裏手、道路に面した部分にあるので黙って撮っても構わなかったと思うのですが、池田の事件なんかでピリピリしてて取り押さえられたりしたらたまらんので、一応は学校の人に声をかける事に。
 受付に人が居なかったので職員の人を探して校内へ・・・なんか却って不審者度が増したような・・職員室の手前で先生か用務員か判断に苦しむ風体の人を発見。快く撮影の許可を頂いて撮影。

 そんな事をやっている間にお昼前になったのでオフ会の集合場所である秋葉原へ・・

 3日目は朝からコミケに行って、午後からぼろ雑巾のようになって帰ってきて、浅草で鰻と鮨食って寝ただけなんで、旅行記はパスして次は4日目・水戸編です