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 柳と回天 
12/27
大阪→小倉
12/28
小倉→若松→門司→下関
12/29
下関→大津島→宮浜
12/30
宮浜→宮島→岩国→門司
12/31
門司→大阪

12月28日 明治・大正そして昭和へ

駆逐艦<柳>  
軍艦防波堤の<柳>。他の2隻は埋没。
破損状況  
大正時代の船ですから流石にボロボロですが補修されています

 最初の目的地は駆逐艦<柳>。大正6年に建造された桃型駆逐艦です。桃型は「八八艦隊計画」の前駆計画というべく時期に建造された中型駆逐艦で、二等駆逐艦としては初めてタービン推進を採用、一等駆逐艦である磯風型に勝るとも劣らない強力な兵装を備えた画期的な艦で第一次世界大戦では第二特務艦隊(欧州遠征艦隊)に属し、地中海でドイツ潜水艦部隊と死闘を繰り広げた歴戦の艦でした。
 昭和15年4月1日に除籍となりましたが終戦まで佐世保に係留されており、戦後、「大和の沖縄特攻」から生還した秋月型駆逐艦<冬月><涼月>と共に若松港外に防波堤として沈められました。

 防波堤ですから当然ながら港の外れに沈められた筈ですが、今では外側の埋めたてが進んで埋立地の中ほどになっています。
 市街から相当距離があるので徒歩で行くのはしんどそうですし、バスは市街から朝行って夕帰る便が1日2往復のみですから必然的にタクシーを使う事になりますが、遠くからタクシーで行くのも悔しいので行ける所までは近づく事にします。
 小倉からJRで若松まで行こうとすると洞海湾をぐるっと回って遠回りになるので洞海湾の対岸である戸畑まで行き、そこから渡船を利用。渡船は北九州市の市営で1回50円、若戸大橋の下の約3分の航路で戸畑と若松を結んでいます。
 若松渡場からはタクシーを利用。もう少し行けそうだったのですが、知らない町で奥に進みすぎて迷ったりすると時間の無駄なので適当な所で妥協。運ちゃんに「軍艦防波堤」といっても通じませんでしたが「響灘埋立地の木材団地の先の1号岸壁」といえば通じました。

 約10分で軍艦防波堤到着。<柳>と対面〜。うーん、これが第一次世界大戦で地中海まで行ってドイツと戦った船ですか・・・なんか、感無量ですな。
 さて、写真をご覧戴ければお判りになるかと思いますが、この艦、最近修復された痕があります。(写真の船体下方の白いコンクリートの部分)。
 実は風化が著しくボロボロになっていたのですが北九州市によって補修が成されたのです。すでに響灘は埋めたてられて防波堤としては機能しておらず、また船として残っている訳でもないのにきちんと修理したのですから大したもんです。中には千葉市のように自分から望んで貰って来ておきながら、古くなかったからといってあっさり解体してしまったタリバン以下な自治体もありますからねぇ・・

 触ったり拝んだり船体の上に乗ってみたりと色々やって堪能したので次の目的地・門司に移動。とりあえず戸畑に戻らないと・・もちろん、私だって馬鹿じゃないから工業地帯の真中に流しのタクシーが居るなんて思ってません。ちゃんとタクシー会社の電話番号は用意してあります。では早速電話を・・・「あぁ!携帯電話は駅のコインロッカーに入れてきた!」。PHSは腰にぶら下げてありますが、こんな埋立地では・・・と駄目元で表示を見ると・・アンテナ3本立ち。DDIポケット、偉い。

駆逐艦<柳>の地中海における主な交戦の記録
大正6年
12月31日
桃と共にタラントからアレキサンドリアに英運送船<オスマニア>護衛中に敵潜の襲撃を受ける。<オスマニア>沈没。戦果なし。
大正7年
2月12日
桃および英駆逐艦<ウェルランド>と共にマルタからアレキサンドリアに運送船3隻を護衛中に敵潜を発見、有効な爆雷投下位置により撃沈と判定。
3月31日檜と共にアレキサンドリアからポートサイドに仏運送船<ラファール>護衛中に敵潜の襲撃を受ける。<ラファール>大破・任意座礁。
4月11日檜、桃、樫、楠、梅と共にアレキサンドリアからポートサイドに運送船7隻を護衛中に敵潜と交戦、相当な戦果ありと認む。後に独水兵の遺体を確認。
6月12日松、杉、橄欖、桂、楓、梅と共にマルタからアレキサンドリアに運送船5隻を護衛中に敵潜と交戦。戦果、損害ともになし。
6月14日松、杉、橄欖、桂、楓、梅および英スループ、飛行機と共にアレキサンドリア港外で交戦。戦果不明なるも相当の効果ありと認む。
6月21日アレキサンドリアからタラントへ運送船5隻を護衛中に敵潜と交戦。攻撃位置良好につき撃破と認む。
6月30日杉と共にタラントからマルタに帰投中に雷跡を発見。対潜掃討を行うも効果なし
7月19日柏、杉、松と共に運送船<オーストラリアン><ボルベロ>護衛中に交戦。<オーストラリアン>大破・処分。<ボルベロ>中破。相当の戦果ありと認む。
8月22日柏と共にアレキサンドリアからマルタに帰投中に雷跡発見。掃討を実施するも戦果確認できず。


JR門司港  
JR門司港駅。手前の窪地は噴水です
大阪商船  
大阪商船。かつて旅人がしばし祖国との別れを惜しんだ所。
関門渡船ふぇありい2  
門司=唐戸を結ぶ渡船。高速にちょっとびっくり。

 第2ラウンドは門司港レトロ。門司は九州の、いや日本の玄関口として大変栄えた街でその中心のJR門司港駅付近には長い歴史のある大変趣のある建物があります。
 まずはJR門司港駅。いまでこそ事実上の盲腸線の終点ですが、関門トンネルができるまでは門司駅として九州の鉄道の起点駅でした。木造とは思えないような重厚な雰囲気で、駅舎としては唯一、重要文化財に指定されています。
 構内は補修はされているものの、往時の雰囲気がでるように工夫されており、「切符売り場」などの看板はレトロなフォントの旧字体で描かれています。また、九州の鉄道発祥の地を示す0哩標識碑やSLの動輪、腕木式信号機などモニュメントの類があふれ関門連絡船への地下通路やトイレの手水鉢(戦時中の金属供出を免れた事から「幸運の手水鉢」と呼ばれる)や水のみ場(帰還兵や引揚者が飲んだ事から「帰り水」と呼ばれる)など施設にも一々曰くのある、歴史の塊のような駅です。

 続いて大阪商船ビル。大陸航路の待合室として使われた建物です。2Fは門司の歴史や海運に関する資料室になってジオラマや各種の船の模型などがあります。また、ビデオの上映も行っていて「むかしの客船」なるビデオはあるぜんちな丸&ぶらじる丸の紹介映画でした。
 その隣が三井倶楽部。三井物産の社交倶楽部として建てられた建物でアインシュタインも泊まったとか。一瞬、大阪商船の隣に建っているのを当然と思ったのだけど、よく考えると大阪商船が三井船舶と合併して大阪商船三井(現商船三井)になったのは戦後の海運集約での事で、大阪商船は本来は住友系。単なる偶然にしては良くできているなぁ・・将来の暗示って奴ですかね・・などと思ってましたが、元々別のところに建っていたのを最近、移設したとの事でした。

 その後、船溜まりをぐるっとまわって旧門司税関などを経由して跳ね橋「ブルーウィング」を渡ります。土日はここから関門海峡周遊船が出ているのですが、今日は金曜日なので運航なし。ここで使われている船は<ヴォイジャー>という名前で、船の上に丸いボールのようなものが2つ乗っかったSFに出てくる宇宙船のような変わった形状をしていますが、これはHSCCという無動揺システムが付いているそうで、全く動揺が無いそうです。これを聞いた時は「なんでそんな大げさなシステムを?」なんて思いましたが、小一時間後に激しく納得する事になります。

 跳ね橋を渡った後はマリンゲート門司へ。門司港の旅客ターミナルで関門海峡対岸の下関唐戸行きと周防灘を隔てた対岸の松山行きが出ていますが、松山行きは明後日に乗船予定なので今日は下関行きに乗船。

 こちらは唐戸までの4km、約5分の簡易な航海と思ったのですが・・・・はっきりと傾いているのが判るような姿勢でかっとんでいき、後部席の窓は水飛沫で前が見えないほど。
 この船は関門汽船の<ふぇありい2号>。総トン数は19トン。免許などの関係で19トンという船は割と多いのですが、200馬力ぐらいのエンジンで10ノット程度が相場なのに対し、この船は840馬力もあり速力は16ノットと抜群の高速船でした。
 高速船は航海時間の短縮というよりは、関門海峡の潮流が速いせいでしょうね。最大で約8ノットという事なので、船の速力が10ノットだと流されないようにするのが精一杯で前に進めなくなりますから・・・


李鴻章道  
ただの道、でも歴史の道
大連神社  
大連神社(写真の建物は大連から持ってきた物ではありません)
下関要塞  
火の山公園展望台。土台部分は砲座だったりする。

 下関唐戸に入り、旧英国領事館の前を通って引接寺へ。小早川家の菩提寺で左甚五郎の作といわれる竜の彫刻がありますが、日清講和会議(下関条約)の際に中国側使節の李鴻章一行の宿舎に使用されたことでも知られています。「昨今の日本を取り巻く情勢をかんがみるに、もう一度この寺に中国の人を招待したい心境です」などと怖い事を言ってみる。

 引接時から講和会議の会場の春帆楼まで李鴻章も使ったという小道を通って移動。明治28年3月24日に李鴻章が襲撃されるという事件があり、それ以後、危険を避けるために山手の小道を使ったとの事。途中にある民家に鶏が飼われていたりする何の変哲もない道でした。
 小道を抜けるとふく料理の免許第一号の伝統のふく料理屋(旅館)春帆楼。その前には日清講和記念館があり会議で使用された調度品や各種資料が公開・展示されていました。

 さらに関門橋の方に歩いていくと平家と共に壇ノ浦で崩御された安徳天皇をお祭りする赤間神宮。中国地方唯一の御陵であり、耳無し芳一の木像、平家一族の墓などでも知られていますが、すみっこに「大連神社」の看板が。

 満州の大連な筈はないから「おおむらじ」ですかね、大連というと大伴氏と物部氏ですから赤間神宮より由緒が古い事になりますが・・と行って見ると、満州の大連の方でした。
 大連神社は大連にあった満州総鎮守の神社で終戦時に宮司が命がけで奉護して奉遷、筥崎宮を経て赤間神宮に奉祀され現在地に鎮まったとの事。奉護してきた宮司が赤間神宮に赴任した為にこの地に奉祀されただけで深い意味があった訳ではないらしいのですが、海外神社が古くから外国への入り口であった下関に鎮められたというのは、なかなか縁起深いものがあるような気がします。

 その後、宿のある長府に移動。市立美術館前のバス停でバスを待っていると、バス停の真横に記念碑発見。「軍令部総長伏見宮博恭王殿下飛行御上陸記念碑」。伏見宮殿下といえば仮想戦記には、たいてい主人公に反対する勢力の黒幕として登場する海軍悪役率ナンバーワンな人ですが何をしたんでしょう・・と説明文を読んでいるとバスがやってきて・・・そのまま行ってしまいました。あっけに取られて呼び止める事もできず。まあ、カメラだして記念碑の説明文を読んでいる人がバスの客と思わないのは仕方ないのですが。
 ちなみに記念碑は昭和9年に伏見宮殿下が水上飛行機でやってきて、この辺に降りた事を記念する碑だったようです。

 さらに関門橋まで戻ってロープウェイで火の山山頂に登ります。夜景スポットとして有名な所でありますが、かつては夷荻の来襲を告げる烽火台があったことから「火の山」という名前がついたそうです。
 幕末にはここで列強と砲撃戦をやり、明治にはいると下関要塞として整備され、以後終戦まで要塞地帯の中核として立ち入りが禁止されていました。
 現在は山頂には展望台や何やらがありますが、砲台や倉庫などの遺構が残っていたり、あるいは利用されていたりしています。

 最終のロープウェイで下山、再びバスで今夜の宿、「下関マリンホテル」到着。予約してから知ったのですが、隣の下関マリンランドという遊園地は目眩のするような施設で、しかも2年前に台風で吹き飛ばされて再建されていないというすげえ状況。もしかして大失敗かーと思って覚悟してましたが、どうしてなかなか、かなり立派な観光ホテルでした。外見は少しヘタって見えますが中身は清潔で綺麗、温泉施設も再建されてとても綺麗でした。
 部屋は関門大橋が見える8畳間で14000円(やど上手で予約)。玄関にも畳間が1畳あって立派な部屋でした。食事は朝夕ともレストラン食。夕食は豪華で量もたっぷり、朝食バイキングは少々選択の余地が少なかったように思えます。
 部屋に冷蔵庫が無いのは減点ですが、廊下のジュースの自動販売機が定価売りなのは素晴らしいと思います。
 お風呂は併設の温泉施設が自由に使えます。大浴槽、薬湯、歩行浴、サウナなどかなり広い目、露天風呂もあります。私が行った日だけなのかしりませんが、割と家族連れが多く、少々騒がしい感じはしました。



 次の目的地は徳山湾大津島。回天記念館です