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砲艦とは


 砲艦とは、英語でいう「GunBoat」と呼ばれる艦種で、その成立は帆船時代まで遡る伝統ある艦種である。
 帆船時代の「砲艦」は小型の船体に比較的大型の砲を搭載した艦で、必然的に航海性能が悪くなる事から、防御的な役割を担う事になっていたが、大英帝国は砲艦も平気で遠方での任務で使用したので、「小さな戦闘艦」という程度の分類でしかなかったようにも思える。

 日本には帆船時代がなく、いきなり汽帆時代からの出発であるが、当初は確たる分類基準はなかった。
 明治31年までは非公式にバラバラの艦種で呼ばれていたが(公式には「軍艦」と「運送艦」。海軍崩壊まで主要艦のみを「軍艦」と呼んでいたのは、この時代のなごり)、明治31年の海軍省通達で種別・類別が制定されると、それまで「ガンボート」と呼ばれていた艦や「スループ」「スクーナー」などと呼ばれた艦のうち、小型の艦を「軍艦」の中の「砲艦」に類別したのが、日本における「砲艦」の始まりである。
 この時代の「砲艦」は帆船時代の砲艦を色濃く引き継いだもので、航海性能を犠牲に小型の船体に強力な砲を搭載した沿岸警備用の艦で、500トン強の船体に20センチ砲を搭載した艦も登場した。
 このグループに属する艦としては日清戦争に参加した<天城>や<盤城>などがある。また、江華島事件の<雲揚>なども明治31年以前に除籍された為、正式な「砲艦」に分類された事はないが、「砲艦」として扱うべき艦であると思われる。


 明治中期より経済の実情と戦訓により、海軍の方針が遠征海軍&小型砲重視に転換した為、沿岸警備型の砲艦はその存在意義を失っていった。
 その頃、列強各国で盛んに建造された艦種に「トーピード・ガンボート(水雷砲艦)」とも呼ばれるものがあった。
 これは、水雷を装備した外洋型の快速艦で水雷襲撃の他、水雷艇の支援や艦隊間や泊地の連絡に使用される万能の小型艦で、日本海軍は後者の機能に着眼し「通報艦」と類別名を定めた。
 しかし、船舶無線が急速に普及した為、「通報艦」は「通報」任務を失い、「看板に偽りあり」状態となった為、大正元年に、すでに任務を失い空洞化していた「砲艦」にそろって移籍する事となった。
 このグループに属する艦としては日本海軍初のタービン推進艦である<最上>などがある。また、大正元年以前に除籍された為、「砲艦」とならなった通報艦として<八重山>などがある。


 日清戦争の結果、大陸における権益が拡大し、上海や福建といった大陸の沿岸部や漢口など長江下流に警備戦力を置く必要が生まれ、それなりの外洋航行能力と、長江での行動が可能な浅吃水を兼ね備えた警備艦が建造され、これらも「砲艦」に分類された。
 このグループに属する艦としては<嵯峨><安宅>などがある。また、昭和12年度計画の橋立型もこのグループに属する艦であるが、上海事変などの戦訓により警備力より戦闘力を重視した為、他艦と一風変わった艦となっている。


 また、日清戦争の結果、重慶などの長江の上流部分にも権益が発生した為、そこまで遡上できる艦艇を配置する必要が生まれた。
 ドナウ川やアムール川など、河用砲艦は特に珍しい存在ではなかったが、長江の場合、年間を通じて水位の変動が激しく、極端な浅吃水が求められると共に、三峡などの難所を遡上する為の機関出力、洞庭湖の広水面に対応できる凌波性能などが要求された反面、正規軍との全面戦争は想定されいない為に武装は比較的弱いという、長江型河用砲艦として独自の発展をしていく事になった。
 このグループには<隅田>や勢多型などが属している。最終型の伏見型は同期計画の橋立型と同様、戦闘力を重視した設計となっており、重油専燃缶やタービンを採用するなど、他艦と一線を画する存在となっている。


 砲艦は通砲艦転籍グループを除いて小型ではあるが、外地警備という任務上、駆逐艦や潜水艦より上級の「軍艦」に分類されていた。
 ただし、河用砲艦については、艦長は大佐ではなく、中佐が選ばれていたようである。
 開戦後は外交上の威厳を気にする理由もなくなったので、両用艦とも「軍艦」から外され、独立した分類となった。

熱海型砲艦(河用)


← 二等砲艦(河用砲艦)<熱海>。
 お馴染みの鼠色ではなく白色と薄黄色なのは、長江の暑気対策の為で、「揚子江カラー」と呼ばれた昭和初期のカラーリング。
 なお、開戦後は鼠色、末期には迷彩の為に褐色に塗られた。